アヘン戦争

出典: Jinkawiki

 1839年(天保10年)11月、イギリス軍艦2隻と清国海軍29隻の兵船が、広州の大河、珠江の河口にある川鼻で戦闘を交え、清国兵船のほとんどが破壊された。イギリスと中国の川鼻海戦、東アジア歴史を大きく転換させたアヘン戦争の始まりである。

 当時、中国は、イギリス、オランダなどのヨーロッパ諸国に貿易を許していた。中国の茶、生糸、磁器などが輸出され、中国へ多額の銀が流入し続け、この銀流入で中国経済は繁栄を持続していた。とくにイギリスでは、お茶はイギリス労働者階級の飲み物だった。このため、イギリスは、産業革命以後、最大の茶消費国として大量に茶を輸入し、18世紀委末には中国貿易をほぼ独占した。しかし、イギリス向けの輸出商品は乏しく、茶代金はほとんどが銀で支払われ、イギリスは大幅な貿易赤字に陥っていた。産業革命を推進したイギリス産の薄手木綿は、中国在来の厚手木綿「土布」に取って代わることができなかったのである。    そこでイギリス東インド会社は、18世紀末から統治していたインドでアヘン栽培・精製の専売制度を実行し、アヘンを民間のイギリス商社に売り渡し、中国に密輸させた。密輸アヘンの量は1800年(寛政12年)には2千箱、1830年(天保元)には約2万箱になり、逆に代金として多額の銀が中国から流出する。アヘン二万箱は銀1千万両以上にあたり、当時、中国の歳入は4千万両前後、その4分の1に相当する。このため中国は1796年(寛政8年)にアヘン吸引を禁止したが、効果はなかった。それどころか1837年(天保8年)にはアメリカ商人による、おもにトルコアヘンの密輸とあわせて3万9千箱ものアヘンが中国に輸出され、中国人アヘン吸引者は二百万人を超えた。清国内のアヘン吸引の悪弊によって、健康を害する者が多くなり、風紀も退廃していった。  イギリスは、1834年(天保5年)に東インド会社の中国貿易独占権を廃止し、イギリス民間商人から莫大なアヘン税収入を得てインドを支配した。イギリス商社はアヘンの売買益で中国茶を買い付ける一方、インドへは綿布を売りつけた。こうして、中国銀の国外流出は1821年からの40年間で1億ドルに達した。

 1839年(天保10年)、清朝道光帝が派遣した湖広総督林則徐は、イギリスからアヘン2万余箱を没収し、海水中に破棄した。ジャーディン・マセソン商会のものが7千箱を占め、2位はデント商会の千7百箱である。なお、両社とも、日本開国後ただちに横浜に出店し、対日貿易をリードした大商社である。こうして、イギリス軍艦2隻と清国艦隊の武力衝突が川鼻沖でおこったのであった。「麻薬の密輸」という開戦理由に、イギリス本国の議会でも野党保守党のウィリアム・グラッドストン(後の首相)らを中心に『こんな恥さらしな戦争はない』などと反対の声が強かったが、清に対する出兵に関する予算案は賛成271票、反対262票の僅差で承認された。

 イギリス軍は48隻の艦隊と4千人の兵力を派遣し、7月4日、舟山列島で戦闘を開始、中国西南海岸諸都市を攻撃した。次々に中国各地を占領し、南京に迫ってきていたため、清朝は屈伏して南京条約を結んだ。  中国側は香港の割譲、広州・福州・廈門・寧波・上海の開港、没収したアヘンの代価600万ドルの賠償などを承認し、追加条約で領事裁判権、最恵国条項、関税自主権の放棄などを認めた。

 水野忠邦が始めた天保の改革は、対外的危機感をテーマに進められた。外国船打払令を撤回し薪水給与令を発して紛争の回避をはかる一方、長崎町年寄高島秋帆が建言した西洋風砲術を採用した。また、大名に対して、日本全体の防衛の観点から軍備強化を指令した。


【参考文献】『日本の歴史18巻 開国と幕末変革』井上勝男著,講談社,2002年

      『日本の歴史6 江戸時代』深谷克己著,岩波書店,2000年

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