アヘン戦争2
出典: Jinkawiki
1840年、アヘンの密輸をめぐって清とイギリスの間に起こった戦争
18世紀の中国貿易はおもにイギリスが行っていた。しかし、中国(清)との貿易は広州一港に限られ、公行と呼ばれる商人組合に貿易独占権が与えられている、非常に制限された貿易であった。 イギリスは一方的に中国から茶を輸入し、対中貿易は赤字であった。茶は16世紀のはじめ、船員や伝道師によってヨーロッパに紹介され、始めは薬屋で貴重薬として量り売りなどをしていたが、しだいに喫茶の風習が一般に広まり、とくにイギリスでは、19世紀に入ってから「ティー・タイム」が習慣化し、茶の需要は高まった。アッサムやセイロンで茶の栽培がはじめられたのは後年のことで、当時、茶の供給源は中国にしかなかった為、金額にしてもおびただしい額の茶葉をイギリスは中国から輸入しなければならなかった。 ところが、それに対して、イギリス側では適当な見返りの輸出品がなかった。毛織物の輸出に力を入れようとしたが、中国人の好みに合わなく、輸出量も伸び悩んだ。このように、見返りの輸出品がないため巨額の茶葉購買の代金は、どうしても現銀決済となる。このようにして、イギリス船は銀貨を積んで広州へ行き、そして茶葉を積んで帰るということになった。この当時、清国は銀本位制であった。
茶葉を大量に輸入し、必要な輸入品がないうちは、銀は国内に有り余っていた。しかし、インド製のアヘンの輸入が清国の貿易形態を逆転してしまった。今度はイギリスが清国から輸入する茶葉の額よりも、清国に販売するアヘンの額のほうが、はるかに多くなった。19世紀のイギリスは、インドと中国を結ぶ三角貿易を展開し、膨大な利益を上げたのだ。清国側としては、アヘン購入代金の見返りとして、茶葉の輸出だけでは足りなくなって、現銀を充てなくてはならなくなった。アヘンの吸引の悪習は、清国に瞬く間に広がった。 清朝は1729年以降5度のアヘン禁令を出して、国民の健康を害し、銀を流出させるアヘンの輸入を抑えようとした。しかし効果は上がらず、1840年までに5000万ドルの銀が流出した。このため、清国内の銀は高騰し、経済は混乱、ついに林則徐を広東に派遣してイギリス商人のアヘン強制買い上げを断行し、また今後アヘン貿易をしないという誓約をイギリス商人に迫ったが、イギリスはそれを不当として翌年戦端を開いた。清はイギリスの武力に制圧され、1841年川鼻(せんび)仮条約を結んだが、咸豊(かんぽう)帝は批准せず、戦闘は再開された。イギリス艦隊は北上して上海などを占領し、さらに南京に迫ったので清は屈伏し、1842年8月南京条約に調印した。この条約の取り決めの中にはアヘン貿易に関するものはなかった。
参考:著 陳舜臣 「実録アヘン戦争」 中公新書
佐藤次高 木村靖二 岸本美緒 「詳説 世界史」 山川出版社