アヘン戦争3
出典: Jinkawiki
アヘン密輸を正当化する侵略戦争
目次 |
概要
アヘンは習慣性のある麻薬であり、清は1729年に最初の禁令を出した。しかし産業革命の資本確保のため、イギリスはそれを承知のうえで中国に密輸し、紅茶に支払った銀を回収した。
戦争の動き
林則徐の強硬策に対し、イギリスでも強硬論が台頭し軍艦16隻、輸送船32隻、兵員4000あまりを中国に派遣した。林則徐に代わって琦善が欽差大臣になったが会談は決裂、翌年は琦善に代わった奕山が軍備を増強し、開戦に至った。 イギリス軍は広東から北上、寧波、上海を陥落させた。戦争は2年以上にわたるものになり、中国が敗北した。
戦争の背景
1757年以来、中国の貿易港は広東1港のみで、特許商人だる公行(広東13行)を通じて行われた。1834年までに、イギリスは数度にわたり自由貿易を要求したが拒否されている。というのも18世紀になっって、イギリスでは中国の紅茶に対する需要が高まり、東インド会社は絹や陶磁器と並んで大量の紅茶を買い求めるようになっていた。その代価として銀が大量に中国に向けて流出すると、銀を必要とするイギリスは回収のため、アヘンを中国に密輸し始めた。道光帝は自らアヘン中毒を克服した経験から、アヘン問題には厳格であった。この期待に応え、欽差大臣の林則徐は広東で関係者を軟禁、アヘンの没収と処分という強硬策に出た。
戦後の動き
南京条約に続いて五港通商協定、虎門寨追加条約などの不平等条約で、中国は治外法権、関税協定権、領事裁判権や最恵国待遇などを認めさせられた。イギリスにとっては閉鎖的な中国市場に風穴を開けたことになるが、自由貿易とはいえなかった。中国にとっては苦難の近現代史の幕開けとなった。なおアヘン貿易はさらに急増し、第二次アヘン戦争(1856年~60年)中の、1858年に結ばれた中英天津条約の付属書において、関税を課す形で「合法化」された。20世紀に入ってもまだアヘン戦争時よりはるかに高い水準を維持、国際アヘン会議を経て1917年に廃止された。代わりに中国産アヘンが著しく増加した。アヘン戦争はアヘン問題を終結させたのではなく、逆にアヘン貿易の増大と、イギリスによるインド、香港などの植民地支配の強化、さらには産業革命から100年を経た工業生産物の広大な市場をひらいたのである。最北の開港場・上海は、その後、中国最大の都市に発展する。戦争にかろうじて勝利したイギリスにとっては、上海租界の形成と、香港植民地とが、東アジア支配のための車の両輪のように重要な意味をもつにいたった。
参考文献
「図説世界史」関眞興(編著)実業之日本社発行
「地域からの世界史-3 中国」森正夫 加藤祐三 朝日新聞社発行