アポロ計画の背景・経緯

出典: Jinkawiki

1957年、ソ連がスプートニク1号、続いて2号(犬を搭乗)を打ち上げたところ、アメリカは宇宙開発分野で大きな遅れをとっており、58年にようやくエクスプローラ1号を打ち上げた。61年、ソ連は史上初の有人宇宙船ウォストーク1号(ガガーリンが搭乗、地球を1周して生還)で世界初の有人軌道飛行に成功し、アメリカの遅れは決定的になった。

この遅れを回復し、アメリカの国威発揚と技術力の優位の確立のために、「1960年代の終わりまでに、月面に人間を着陸させ、安全に地球に戻すこと」を1961年5月に国家最優先計画としたのは、同年に大統領に就任したばかりのケネディであった。

アポロ計画は政治的な決断として、目標(目的とスケジュール)が定められてスタートした。そしてスケジュール確保が最優先され、予算は無制限近く潤沢に認められていった。ケネディ暗殺(1963)後、ジョンソン大統領もこの計画を推進し、1969年大統領に就任したニクソンも計画を中止することはなかった。当初の目標は、69ン円7月20日のアポロ2号による人類初の月面着陸によって達成された。それはケネディの公約よりも5ヵ月早く、これ自体はやはり称賛されるべきことであろう。

アポロ計画は太陽系に向けての人類発展の第1歩と考えられるが、けっして長期計画的な宇宙探査計画の1部ではなかった。ロケットの開発とアポロ計画全体の推進者の1人であるフォン・ブラウンは火星探査宇宙飛行計画構想をもっていた。もし当時の大統領が彼の構想を聞き、長期宇宙探査計画を立案し、その中の1つとしてアポロ計画をスタートさせていたならば、ポスト・アポロ時代は別の進み方をしていたであろう。

アポロ計画は、米ソの冷戦のさなか、アメリカの国力が頂点にあるとき、ケネディの政治的決断でスタートし、その結果、人類は月面に降り立った。ニクソンはアポロ計画の後半をカットし、計画は1972年12月のアポロ17号による6回目の月着陸をもって中止された。その要因は、アメリカ国民の期待からすれば月面には予想したほどの実用面からの成果がなく、かつ、一方にベトナム戦争出費による経済不安が募り、それらを理由とした反宇宙派の巻き返しという社会・政治情勢であった。

無人の月探査計画を別にすれば、1982年現在、アメリカが有人での月探査、宇宙探査計画を再開する予定はない。アポロ計画はアメリカの威信をかけたプロジェクトであったと同時に、人類史上の1つの時代を象徴するものであった。

参考文献:日本大百科全書1 編集,著作,出版者 渡邊 靜夫

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