アメリカの人種差別2

出典: Jinkawiki

 人種問題に触れることなく、アメリカの歴史を語ることができるだろうか。十八世紀前半までにイギリスが北米に築いた13植民地で、イギリスからの植民者は、ラテンアメリカの場合と異なり、先住民のインディアンと融合しなかった。北東部植民地では自営農民の農業や商工業が発達した一方、南部では主に黒人奴隷を使用したプランテーションが盛んとなり、こうした産業の発展が、反英独立運動の基盤となっていく。人民主権・三権分立・基本的人権の保障などの原則を確立して独立・建国が達成されるが、黒人奴隷や先住民の権利は省みられなかった。19世紀にはいって領土拡大が進展するにつれて、白人に圧迫されたインディアンの多くはミシシッピ川以西の保留地に移された。19世紀後半に西部開拓が大規模に進められるようになると、追い詰められたインディアンは各地で激しく抵抗したが、1890年頃までに白人に制圧された。

 南北戦争の結果、奴隷制度は廃止されたが、南部諸州は19世紀末から、解放された黒人の権利を州法その他によって制限し、黒人の多くはシェアクロッパーとして苦しい生活を余儀なくされ、社会的・経済的差別待遇が確率していった。南北戦争後、工業が目覚しく躍進してアメリカは世界一の工業国となり、移民がこの工業発展を支えるうえで重要な役割を担ったが、東欧・南欧系の新移民やアジア系移民の多くは、低賃金の不熟練労働者で、のちの移民制限問題の発端となる社会問題も起こった。第一次世界大戦後、アメリカは大いなる繁栄の時代を迎え、現代大衆文化が成立する一方、伝統的な白人社会の価値観が強調されて禁酒法が敷かれ、1929年移民法では、日本を含むアジア系移民が禁止されるなど、保守的な傾向もあらわれた。

 第二次世界大戦後になると、冷戦下でアメリカ経済は安定した成長を続けたが、それに連れてこれまで繁栄の影に置かれ、差別を受けていた黒人の中から、平等な公民権を求める運動が起こった。ケネディ大統領は、黒人の公民権運動への対策を模索し、次のジョンソン大統領も黒人差別撤廃をめざす公民権法を成立させたが、公民権運動の指導者キング牧師が1968年に暗殺されるなど、黒人運動を巡る対立も深刻になり、社会の亀裂があらわになった。

奴隷性の成立と異人種婚禁止

 アメリカにおける異人種婚禁止の歴史は、南部のヴァージニアで1691年に始まる。ヴァージニア植民地は、「ニグロやムラトーやインディアンがイギリス人やその他の白人女性との間で違法な同衾を行なうことによって、この領地内で今後増加するかもしれない忌まわしい混交と邪悪な出生を防ぐ」ことを目的として、「自由か奴隷かを問わずニグロ・ムラトー・インディアンと結婚するイギリス人やその他の白人はすべて、婚姻の三ヶ月以内に罰せられ、この領地から永遠に退去させられる」と定めた。異人種婚を禁止する掟は、ヴァージニアでは以後約300年維持された。

 1691年の法はまた、混血児を出産した白人女性は、15ポンドの罰金を支払うか五年間の年季奉公を務めねばならないと定めた。さらに、自由身分の女性が生んだ混血児は、教会委員にひきとられ、30歳になるまで奉公に出された。混血児を生む白人女性を罰し、生まれる混血児を当時の平均寿命を考えると終身と言ってよいほどの長い期間、強制的に不自由労働に従事させることが定められたのである。1692年には、メリーランド植民地も同種の禁止法を定めた。

公民権運動

 モントゴメリーのバスボイコット運動の後、キング牧師は、公民権運動の全国的指導者として大きな影響力を持つようになり、彼のもとでボイコット、座り込み、デモなどの大衆行動が果敢に繰り返された。黒人大衆を動員すると共に、白人の良心に訴える運動は、多数のアメリカ人に感銘を与えた。1957年にアーカンソー州リトルロックで白人高校への通学を試みる黒人生徒が白人社会の妨害を受けると、アイゼンハワー政権も連邦軍を派遣して生徒の登校を実現させた。

 異人種婚禁止制度を撤廃する動きも確実に強まっていた。カリフォルニア州では1948年のペレス判決で禁止法は実効力を失い、異人種結婚が容認されるようになった。西部各州の議会がその後廃止に乗り出し、1951年にオレゴン、53年にモンタナ、55年にノースダコタ、57年にサウスダコタとコロラドが、順次廃止の手続きをとった。ネヴァダでは、1958年に、白人男性と日系人女性との結婚に対してペレス判決を判例として州法を違憲とみなし婚姻証明の発行を命じる判決が地方裁判所で出され、翌年、州議会は禁止法を廃止した。また、アリゾナでも1959年に白人女性と日系人男性が起こした訴訟で、禁止法が違憲とされ結婚を認める判決が出された。その三年後に、アリゾナ州議会は禁止法を廃止した。こうして、西部・中西部の全ての州が異人種婚禁止体性からの脱却を果たした。国連総会で、アメリカ合衆国も賛成した人種差別撤廃条約が採択された1965年末の時点で、引き続き禁止法体制を維持したのは、南部17州のみとなっていた。

参考文献

山田史郎著 『世界史リブレット アメリカ史のなかの人種』 山川出版社 2006年

C・V・ウッド著 清水博/長田豊臣/有賀貞 訳 『アメリカ人種差別の歴史』 福村出版 1998年


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