アメリカの人種隔離教育
出典: Jinkawiki
人種隔離教育とは、公立学校において、白人と黒人の児童生徒を別々に教育することである。このことは、「隔離だが平等」を根拠に容認されてきたが、1954年のブラウン対カンザス州トピカ市教育委員会判決を機に認められなくなり、今では人種統合教育が圧倒的に支持されている。
人種隔離教育の歴史
1846年、ボストン市教育委員会は人種隔離教育が州の憲法上許されるものであるとし、また、黒人にとってもそれが最善の教育体制であるとした。その後の1847年に、五歳の娘を持つ黒人のベンジャミン・ロバーツが、娘が白人専用小学校に四度の入学拒否をされたことに対して、州憲法に違反するとして訴訟を起こした。結末は、ボストン市教育委員会が黒人の要請を退け、人種隔離教育自体の廃止を裁判によって追及することを勧告するというものであった。これを機に、その後は人種隔離教育に関する様々な訴訟が起こされた。そして、1954年に「隔離だが平等」の概念が葬りさられ容認されなくなった。ここに至るまでの人種隔離教育が、白人、黒人を平等に取り扱うものであったのかというと、そうではなかった。黒人のおかれた教育環境が劣悪であったり、黒人にとって不利な点が多かったりと、平等とは言い切れないことが多かった。
人種統合教育への移り変わり
アメリカ南北それぞれにおいて人種問題が発生し、南北戦争の発生も乗り越えながら、アメリカでは次第に人種隔離教育から人種統合教育を目指す動きがみられた。数々の人種隔離問題の違憲判決を経て、1960年代半ばから、州や市のみならず、連邦議会も動くようになったのである。まず、1964年市民権法というものがあり、これは、人権隔離教育を続ける州に対して連邦司法省に訴訟を起こす権限を与えたものである。この法が成立した後、州政府は人種統合に向けて努力しないといけないこととして、以下の三つの手段を指定した。 1)通学区域制度の導入 2)通学校自由選択制度の使用 3)以上の二つの併用 また、1965年に法律化された初等・中等教育法は、「教育上不利な状況下に置かれている児童生徒」、すなわち黒人の教育を助ける目的で、連邦政府が州政府に補助金を出すというものであった。このような過程を経て、1969年8月11日までに、9月11日からの新学期に向けた人種統合計画を裁判所に提出するような命令が教育委員会に下された。
人種統合教育の効果
人種統合教育は当初、白人の学力減退を生じさせないで、黒人の学力向上をもたらすものとされた。しかし、強制バス通学方式による結果を見ると、学力にプラスになったわけでもなく、黒人高校生の大学進学への熱も上がったわけではなかった。また、人種統合教育を推し進めることは、児童生徒の人種意識を高めてしまい、白人と黒人の間での緊張感も高める可能性があるというマイナスの効果も存在する。
今日の課題
人種統合政策を行うことにより、白人の目に映る黒人への配慮が悪いものになってしまう可能性がある。人種統合政策のおかげで黒人が優遇されることになり、白人は黒人を不当に特別扱いされているものとしてみてしまうようになることもあるのだ。例えば、学力などの面で、ある大学に入学することができなかった黒人が、この政策により優遇され、入学が許可されたのではないかと疑ってしまうようになるということである。過去に人種差別が激化していたことは間違いない歴史であるが、その償いとして、どこまで黒人を優遇すべきなのかが課題となってくる。
参考文献「アメリカ民主主義と黒人問題」 著者:葉山明 発行所:東海大学出版会