アメリカの起源
出典: Jinkawiki
アメリカの起源
アメリカでは夢見ることに価値が付与され、奨励されている。なぜなら、アメリカという国家の起源において、万人が夢を持つべきことは当然のこととみなされていたからだ。たとえば、トーマス・ジェファソンは、自ら構想した独立宣言の中で、譲り渡すことの出来ない権利として、生命、自由、幸福追求の権利を掲げた。当時、ジェファソンも参照しただろうジョン・ロックによる自然権の規定では、生命、自由、財産をめぐる権利を不可侵の権利としており、ジェファソンがなぜ財産の権利を幸福追求の権利と書き換えたのか、それは定かではない。しかし、アメリカの夢の追求の権利は、こうして天賦の自然権のひとつとしてアメリカの起源に書き込まれた。また同時に、幸福追求の権利はおろか、生命、自由の権利さえ保障されていなかった黒人奴隷やインディアンの存在があったことは事実である。 《ヴァージニア植民地と奴隷の導入》 ヨーロッパの新大陸への進出はまずスペイン、ポルトガルが始めたが、のちにアメリカ合衆国へと発展する植民事業は主にイギリスが行っていた。16世紀半ば、イギリスには毛織物産業の輸出不振と農地の囲い込みによって土地を奪われた農民や失業者があふれていた。そこで失業者対策として国外の遠隔地へ労働力を供給したのが植民地の始まりである。その最初の植民地がジェームズ一世の特許状を得てヴァージニア会社が1607年に開拓したジェームズタウンで、本国から送り込んだ年季契約奉公人と呼ばれる人々に煙草などを栽培させた。 こうした植民地の形成は初めから順風満帆というわけではなかった。大西洋上での難破や大陸での疾病や飢餓もあれば、土地を奪われた先住民が植民者の身勝手なやり方に抗議し、蜂起することもあった。1622年のポーハタン族による急襲では多くの死者を出している。 1619年、最初の黒人奴隷がアフリカから連れてこられた。奴隷の中には奴隷商人が、アフリカで部族同士を争わせ、負けた側の捕虜として奴隷になったものいた。奴隷は鎖につながれ、ガレイ船で新大陸に運ばれ、競売にかけられたが、来航中にその半分は死亡したという。 《ニューイングランドの植民地》 1620年、イギリス国内における宗教的弾圧から一時オランダに亡命した清教徒たち102人が、新天地を求めてメイフラワー号でプリマスに上陸した。彼らは聖書に書かれたイスラエル民族の出エジプトに自分たちを重ね合わせ、紙から選ばれた民として新天地をという「約束の地」に神の王国を建設しようと試みる。だが、1691年、やはり信仰に根差した、神権制による自治組織をもつマサチューセッツ湾植民地に吸収される。しかし、この組織はあまりにも厳格であったため、意見を異にする人々は追放されたり逃げたりして、新たな植民地の建設に力を注いだ。そのなかには、政権分離を唱えたロジャー・ウィリアムズ建設によるプロヴィデンス植民地、トマス・フッカーによるコネティカット植民地、ジョン・ダヴィンポートによるニューヘイヴン植民地などがある。 《国王直轄の植民地》 1634年にメリーランド植民地を建設したボルティモア卿はカトリック教徒であるが、本国で清教徒革命が起きたのを機に1650年代になると、王権を倒して権力を握った清教徒の移住が増え始める。これらの新たな移住者の中には、オランダに依存していた植民地からオランダ人勢力を締め出し、イギリス議会を中心とする重商主義体制を確立しようとする者もあった。こうしてオランダ領ニュー・ネザランドも、当時のイギリスの領主ヨーク公にちなんでニューヨーク植民地と改名された。領主による植民地の建設は、王政復古後、チャールズ二世によって促進され、1663年にはカロライナ植民地が、1681年にはペンシルヴェニア植民地が、1732年にはジョージア植民地が建設された。 《植民者がもたらした悪夢》 植民者がどんなに理想的な大志を抱いていたとしても、その理想社会の建設は先住民の土地を奪い、自分たちのものにするという利己的なやり方で行われた。土地を私有するという考え方は先住民にはなかったことであり、彼らにとって白人の到来は迫害と抑圧を意味している。ジェームズタウンにおけるポカホンタスの物語のように白人社会に同化した先住民がいたことは事実だが、これも白人の視点から神話化されている。そしてまた先住民の悲劇のみならず、黒人奴隷の悲劇も現実にあった。
参考文献:http://ja.wikipedia.org/wiki/ 『概説 アメリカ文化史』 編著者 笹田直人他 ミネルヴァ書房 2002年初版第1刷発行