アメリカの音楽文化 HIP HOP
出典: Jinkawiki
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HIP HOP
「HIP HOP」とは公民権運動が一旦終焉したあとの時代の産物である。「HIP HOP」は、もともと70年代にニューヨークとその周辺に住むアフリカ系アメリカ人、カリブ系アメリカ人、ラテン系アメリカ人の若者たちによって育まれたさまざまな形態を持つカルチャーの寄せ集めである。そのなかで最も一般的に知られている表現が音楽としての「HIP HOP」というわけだが、ダンス・絵画・ファッション・ビデオ・犯罪・商品開発など、「HIP HOP」はさまざまな分野に及ぶものである。
HIP HOPの始まり
「HIP HOP」は、例えばカンフー映画、チトリン・サーキット・コメディというアメリカ南部各地のアフリカ系アメリカ人が集まるナイト・クラブやバーを巡業していた演芸旅芸人集団、70年代ファンクなどさまざまなネタや、古くなったポップ・カルチャーを臆面もなく取り込んで、そのアーティストの個性や時代性を加味して焼きなおした、ポスト・モダン・アートである。しかし、大恐慌の起きた後、社会全体としての経済が回復していったにもかかわらず、低所得者層の住民は依然として最悪の経済不況を強いられるという、実質的な差別を受けていた。そして平等という言葉の意味に悩み苦しんでいた。「HIP HOP」とは幾多の事象が重なって生まれたものである。しかし大本から考えるなら、「HIP HOP」とは公民権運動後の、精神分裂症的なアメリカという国そのものの産物なのである。「HIP HOP」は、公民権運動の終焉の産物であるのともうひとつ、ソウルという物語の終焉でもある。政治的行動に訴えたり、道徳をめぐって議論を闘わすことで人間性そのものが変わりうるという誰しもにとって喜ばしい楽観主義や理想に満ちた時代の物語だった。
アメリカの背景
今のアメリカは先進国でもあるが、その裏には、先住アメリカ人の虐殺、黒人の虐待、そして「人間はすべて平等に作られている」という言葉に始まる偽善をすべて黙殺した歴史のなかにしか存在しえないアメリカだった。アメリカの暗い裏側とは、公の歴史にそぐわない者たち、必要とされなくなって職を失った労働者や教育をまともに受ける機会に恵まれなかった若者たちによって構成されている。こうした人間にとって母国アメリカ政府との唯一の接触の機会は、陰険な警察がその権力を行使するときがほとんどで、そんなはぐれ者たちはグラフティ(落書き)だらけで不潔な、かつての住人に見捨てられ生活の気配のなくなった界隈に生活していた。70年代半ば当時、古き良き時代の平和な町並みを懐かしみ、それから一体誰が悪いのかと糾弾を始めるとき、その議論では、ブロンクス区が早急に対処されなければならない都市の悲惨を象徴する地域として必ず引き合いに出されるのだった。ブロンクスにあるヤンキーズ・スタジアムが新しく改修され、ヤンキーズが優勝したころにもかかわらず、メディアで紹介されるブロンクスの映像とは、常に放火や火事で焼けたままになったビルと、そのせいで生活の匂いがすっかり消滅して荒涼としたビル周辺などといった光景だった。しかし、1976年の時点で、ブロンクス区は、実は文化的廃墟などとは到底呼べない地域になっていた。荒廃と外部からの拒絶の裏で、活気に満ちた、しかし、まだ誰にも知られていないもののるつぼとなっていたのだ。人種的な融合が進む一方で、ほかの地域から隔絶され取り残されてしまった状況であったブロンクスには、かなり時代を先取りしたクリエイティビティが生まれつつあった。現在、「HIP HOP」として使っているさまざまな表現、つまり、グラフィティ・アート、ブレイク・ダンシング、MC、そしてミクシングはすべてここにルーツがあるのだ。
HIP HOPの影響
HIP HOPの影響として一番多いのはヘロインの蔓延である。ヘロインの社会的な蔓延は、マフィアなど既成の犯罪組織を一部巻き込みながらも、まったく新しい勢力(アジアや、南米の密売業者など)を引きずり込み、またこれまでになく始末の悪い新手の黒人ギャング団の勃興をも促すことになった。そんなギャングを促すようなギャングスタ・ラップが初めて登場したのは80年代中盤のころだった。このジャンルのセールスの大半は都市部郊外で担われたものだった。郊外でよく売れたという現象の原因には、ラッパーがハードであればあるほど郊外に住む10代のキッズには高く評価されるということが関係していたし、さらに郊外で、10代として現代に生きるという経験が本当はどういうことを意味しているのかという問題も関係していた。その中で、そのギャングスタ・ラップを先取りしていたスコット・ラロックはレーガン大統領時代のアメリカに巣食っていた、クラックに支えられた犯罪世界を初めてアルバムとして検証した。非政府を歌うようなラップを出し、国民に浸透してきた頃、スコット・ラロックは銃撃事件に巻き込まれて命を落とした。しかしこの事件の殺人犯として検挙されたものは誰もいなかった。この事件は永久に謎のままだが、ここから見てみると、非政府を歌うような、汚い言葉を使ったラップとギャング犯罪は同じだという人間がなかにはいる。ラロックの死は、現実とライムが悲劇的な形で交錯するという意味で、その後起きた数々の事件をも先取りしていた。しかし、ラロックのラップがギャング犯罪と一緒だというのは違うという説がある。ラロックは暴力的な人間でなく、ホームレス施設のカウンセラーとして働いているような、やさしい人間だったという事実がある。しかし、こんなラロックの死があったにもかかわらず、またしても事件が起きてしまう。90年代アメリカは、東海岸と西海岸で音楽的違いがあった。西海岸のトゥパック・シャクールと東海岸のノトーリアスBIGは当時の東西の代表的ラッパーであった。東西分裂していたが、その代表である、トゥパックとノトーリアスBIGは交友を深めていた。しかしその後トゥパックは、何度も銃撃事件に巻き込まれている。そのたびに、事件の近くでの目撃情報などから、東海岸のノトーリアスBIGが容疑者と疑われ、そこから東西対決が始まる。二人の交友関係も一気に裂かれた。そしてついに、トゥパックが1996年9月7日、ラスベガスの友人でもあるマイク・タイソンのファイトを観戦後、横付けされたキャディラックからの銃弾を4発被弾し、同月13日死亡。25歳の若さであった。その後ノトーリアスBIGが犯人として疑われたが、これを否定。しかし、1997年3月9日、パーティの帰宅途中で銃撃に遭い死亡した。この二人の事件もいまだに捜査中で犯人は捕まっていない。二人は東西抗争の殉教者である。この抗争を機に、「HIP HOP」界の大きな抗争はなくなった。そんな彼らを今もなお受け継いでいるのが、エミネムなどのラッパーである。最近でも、大統領を皮肉したラップで訴えられる。しかし、それでも彼らは歌うことをやめなかった。トゥパックは、4年、監獄に入れられた時でさえ、監獄の中で、新しいレコード会社と契約をするなどしていた。 er
参考文献
ヒップホップ・アメリカ:ネルソン・ジョージ 訳:高見 展 2002年 完全HIPHOPマニュアル:架神恭介 辰巳 一世 2006年