アラブの春10
出典: Jinkawiki
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アラブの春の始まり
アラブの春ときっかけとなったのは、2010年12月17日、チュニジアの地方都市での出来事だった。路上で出店を営んでいた青年、ムハンマド・ブーアズィーズィーが、それが違法行為であることを警官にとがめられ、それを苦に焼身自殺した。基本的に、人間の体は神から与えられたものでありこれを傷つけてはならない、とするイスラームでは、自殺は厳禁である。しかもその「神からいただいた体」を厳しく損傷させる焼死は、なかでも最も忌避される死に方である。 それをあえて実行した、ということに、人々は青年の怒りと悔しさの深さを見た。そして、教官した。仕事もなく、収入も十分ではなく、昇進もできず、その結果結婚もできない。そんな悩みを抱える若者は、国中にいたからである。そしてそのような失敗をただすことなく、一族で政治権力を長く牛耳り続けているチュニジアのゼイン・アルアービディーン・ベン・アリー大統領に対する不満もまた、皆が共有するところだった。
抗議の広がり
ブーアズィーズィーの死をきっかけにして、人々は路上に繰り出し抗議デモを始めた。瞬く間に全国に広がり、集まった民衆は皆素手で、老若男女、市井のさまざまな人々が集まった。なかには、フランスパンを銃に見立てて、警備にあたる軍や治安部隊に突きつけるといった、「非暴力」パフォーマンスをする人もいた。 このデモは、「パンよこせ」デモでは終わらなかった。「民衆は、政権転覆を望む!」というスローガンは、「アラブの春」が起きたすべての国で、合言葉のように叫び継がれるようになる。 突然の全国的反政府デモに動転したベン・アリーは、2011年1月14日、サウディアラビアへと亡命を余儀なくされた。23年間続いた長期独裁政権は、突然終わりを迎えた。このことは、ほぼすべてのアラブ諸国の民衆に、激しい衝撃を与え、過去何年、何十年にもわたり、倒そうと思っても倒れることのなかった強大な独裁政権が、素手の民が路上でデモを繰り広げただけで、倒れたのである。「政権転覆」が、実現した。
各地に広がった反政府運動
チュニジアからエジプトに続いた民衆による政権転覆への試みは、瞬く間にほかのアラブ諸国にも広がった。その「市民改革」的様相から、一連の出来事を目撃した欧米のメディアや知識人は、これを「アラブの春」と呼んだ。かつて社会主義体制から自由化を求めた東欧諸国の改革運動、「プラハの春」になぞらえたものだ。
アラブの春とはなんだったのか
シリア内戦の泥沼化、荒れ放題のリビア、エジプトのクーデタを受けて、「アラブの春」はすっかり「春」とはいいがたい状況になった。そこまでポジティブには言えないとしても、「春」が起きたことでよくも悪くも人々が「自由」を経験したことは、否定しがたい大変化だったといえよう。これまでできないと思っていたこと、許されないと思っていたことが、ある日突然できるようになる。決して越えられない壁が、ある日突然壊れることがある。その達成感、自己実現の喜びは、「春」を経験したことで初めて共有されたものだ。人間の尊厳に対する思いや自己実現への意欲だけであれば、よかったのかもしれないが、惜しみの自由、対立の自由もまた、解き放たれた。恐怖の壁が壊されたとともに、さらなる恐怖、暴力の開発競争も、ISなどによって進められている。
参考文献 酒井啓子(2018)『9・11後の現代史』株式会社講談社