アラブの春6
出典: Jinkawiki
アラブの春
中世以来、地中海がイスラム世界との防波堤の役割を果たしてきました。ところが、 19世紀の帝国主義の時代になると、新たな領土や天然資源を求めて、イギリス、フランス、イタリアが北アフリカを侵略しました。
エジプトはイギリスの植民地に、モロッコ、アルジェリア、チュニジアはフランスの植民地に、そしてリビアはイタリアの植民地になりました。 このような歴史的背景から、チュニジアやアルジェリアなどの北アフリカの国では今でもフランス語が通じる一方、根強い反フランス感情があります。
第二次世界大戦でフランスが疲弊すると、植民地だった北アフリカの国々は次々と独立を果たしました。そのときアラブ諸国の独立を支援するという名目で新たに触手を伸ばしてきた国があります。ソ連です。
その結果独立後の北アフリカ諸国とシリアは、新ソ社会主義政権になりました。 エジプトのナセル、サダト、ムバラク、リビアのカダフィーシリアのアサド家みんな社会主義社会です。
これらの国々はソ連をモデルとして5カ年計画を実施し、企業の国営化も推し進めました。 ところがソ連本国と同様に、なんでも国有化の社会主義経済は効率が悪く、人々の勤労意欲を奪い、党官僚の汚職がはびこります。 自由がない。生活も良くならない。国民の不満が徐々にに高まります。社会主義になれば 平等で豊かになるという宣伝の嘘がバレてしまったのですから
こうした国民の不満の受け皿になったのがイスラム原理主義でした。 勢力を拡大するイスラム原理主義者を恐れた社会主義政権は、強権によってこれを取り締まりました。原理主義者はテロで応戦し、独裁政権とイスラム過激派との血で血を洗う抗争が続いたのです。エジプトのサダト大統領は軍事パレードを閲兵中に射殺され、アルジェリアでは一般市民を巻き添えにした壮絶なテロが繰り返されました。冷戦が終結すると、一気に風向きが変わります。
アラブ諸国のバックについていたソ連が崩壊して援助が止まり、社会主義政権はどこも弱体化していきます。
そこに助けの手を指し伸ばしたのが、冷戦の勝利者、アメリカでした。 90年代、エジプトのムバラク政権やリビアのカダフィー政権は、手のひらを返すかのように、アメリカに急接近。経済を自由化します。この結果外国資本が入ってきて、北アフリカの国々は一気に近代化が進み、経済的にも発展していきました。 ところが弱肉強食のアメリカ型の資本主義は、貧富の差を生みます。 そうなるととうぜん国民の間で一部の金持ちに対して妬み嫉みといった感情が渦巻きます。そんなところにアメリカ資本によって北アフリカに持ち込まれたのが、携帯電話。 それまでは国営のラジオやテレビ放送が国民の情報源だったので、政権が情報統制をして、不満を抑え込むことができました。 ところが、携帯電話やインターネットの普及によって、政権にとっての悪い情報が垂れ流しになります。市民がデモをしている映像や画像が、インターネットを通じて拡散されていったのです。こうして始まったのが、アラブの春と呼ばれる反独裁運動なのです。
ニュースのなぜは世界史に学べ 茂木誠著 引用