アルマダの海戦

出典: Jinkawiki


 1558年にイングランド王位についたエリザベス1世(1533~1603)は、私掠船によるスペイン船への襲撃や、八十年戦争における新教徒勢力に対する支援などの政策を行ったため、スペインとの関係が悪化した。スペイン国王フェリペ2世(1527~98)は当初イングランドとの直接対決には消極的で、レパントの海戦の英雄サンタ・クルーズ公が提案したアルマダ(無敵艦隊)によるイングランドへの武力侵攻の計画を、財政問題を理由に却下していた。しかし、1587年2月8日、エリザベス1世によってスコットランド女王メアリ・スチュアート(1542~87)が幽閉されていたフォサリンゲイ城で処刑されると、ついにフェリペ2世はイングランドに対する武力侵攻を決意してアルマダの準備に取りかかった。

 これに対してエリザベス1世は、なおもスペインとの直接対決を避けようとしていたが、フランシス・ドレイク(1540?~1596)がスペインに先制攻撃をかける事を黙認した。1587年4月、30隻近い艦隊を率いたドレイクは、スペインのカディス港を襲撃して31隻の艦船を破壊し多くの軍需品を焼き払った。迎撃に出撃したスペインのガレー船12隻はイングランド艦隊のガレオン船にまったく歯が立たなかった。

 当時スペイン海軍の主力はガレー船で、アルマダ構想でも40隻のガレー船の参加が予定されていたが、カディスにおける無惨な敗北の結果、大幅な計画の変更を余儀なくされた。さらに当初アルマダの総司令官に予定されていたサンタ・クルーズ公が1588年2月に死去したため、代わって海戦には素人のアンダルシア総督メディナ・シドニア公(1550~1619)が総司令官に任命された。

 1588年4月、リスボンにガレオン船等大型船65隻、ウルカ(運送船)25隻、小型船32隻、ガレアス船4隻、ガレー船4隻、船員8500人、兵士1万8973人からな成るスペイン艦隊が集結した。フェリペ2世の立てた作戦は、艦隊はまずネーデルランドに向かい、そこに駐留しているパルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼ(1545~92)率いる歩兵3万、軽騎兵500の精鋭部隊と合流してイングランドに侵攻するというものであった。そのためシドニア公にはフェリペ2世から、パルマ公と合流するまではイングランド艦隊と積極的に戦わないようにとの指示が与えられた。

 5月18日、リスボンを出港したスペイン艦隊は補給のために入港したラ・コルニアを6月21日に後にし、悪天候のためにガレー船4隻とサンタ・アナ号を失いながらも、7月19日、イングランド南西端のリザート岬沖に到着する。シドニア公はここで戦闘力の無い輸送艦を守るために三日月形の陣形に艦隊を編成し直した。

 対するエリザベス1世は、ドレイクの提言に従ってチャールズ・ハワード・エフィンガム卿(1536~1624)麾下のイングランド艦隊105隻をプリマス港に集結させていた。7月20日、プリマス港を出港したイングランド艦隊は、7月21日にプリマス沖でスペイン艦隊を補足して攻撃を開始した。戦闘は操船術に優り有利な風上に位置するイングランド艦隊が優位の内に推移したが、スペイン艦隊の三日月形の陣形を崩す事が出来ず、決定的な打撃を与える事ができなかった。この海戦でスペイン艦隊は、サン・サルバドール号を火薬庫の爆発炎上で失い、さらに僚艦との衝突で航行不能の状態になったヌエストラ・セニョーラ・デル・ロサリオ号がドレイクによって7月22日に拿捕された。

 東進するスペイン艦隊は、7月23日と25日にも、ポートランド沖とワイト島沖でイングランド艦隊と戦闘を行った。しかし、シドニア公はパルマ公との合流を優先して堅陣を崩さず、積極的に攻勢に出ようとはしなかった。また、イングランド艦隊のカルヴァリン砲はスペイン艦隊のカノン砲よりも射程距離が長く速射が利いたが、砲弾が軽く破壊力が小さいために相手に大きな損害を与える事はできなかった。

 7月27日、フランスのカレー沖に停泊したスペイン艦隊は、通報船を送りパルマ公の合流を待った。しかし、パルマ公側の準備はシドニア公の期待する程には進んでおらず、オランダの海乞食(シー・ベガーズ)が監視する中シドニア公と合流する事は不可能だった。一方、ダンケルクに停泊していたヘンリー・シーモア卿の艦隊と合流して総数140隻になったイングランド艦隊は軍議を開き、カレー港に停泊中のスペイン艦隊に対して「火船戦術」を用いる事を決定した。29日になったばかりの深夜、200トンから90トンまでの火船8隻が潮流に乗ってカレー港に突入すると、スペイン艦隊はパニックを起こし多く艦船が錨索を切断して四散する。

 夜明けと共にイングランド艦隊は、グラヴリーヌ沖を潮流に乗って漂流するスペイン艦隊に対して攻撃を開始した。スペイン艦隊はシドニア公の旗艦サン・マルティン号を中心に反撃を試みたが、やがて砲弾を打尽くしてしまう。そのためイングランド艦隊はこれまでの海戦とは違い、反撃の出来なくなったスペイン艦隊に対して近距離から砲撃を与える事ができた。夕刻まで続いた海戦で、スペイン艦隊はガレアス船サン・ロレンソ号、ガレオン船サン・マテオ号、サン・フェリペ号、マリア・フアン号を失い、他の艦船も大きな被害を受けた。

 7月30日、北海方面に脱出したシドニア公は、イングランド侵攻を断念してスペインへの帰還を決断したが、イングランド艦隊に追尾されているためドーヴァー海峡に引き返すことは出来ず、北上してスコットランド沖を廻る航路をとることにした。しかし、この航路は当時のスペインの航海士にとって経験の無い未知の航路であり、多くの艦船が途中のスコットランド沖やアイルランド沖で難破・座礁した。シドニア公は食料をやりくりしながら、9月12日にサンタデルに帰投したものの、半数近い艦船が再びスペインに帰還する事が出来ず2万人以上の人命が失われた。

 フェリペ2世はその後、1596年と1597年にもアルマダを編成して艦隊をイングランドに派遣したが、いずれも失敗に終わっている。




参考元:http://www.h4.dion.ne.jp/~kosak/Armada.htm

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