アントニオ・ガウディ
出典: Jinkawiki
アントニオ・ガウディ・イ・コルネト(Antonio Gaudi y Cornet, 1852-1926)
19~20世紀のスペイン、カタルーニャ出身の建築家。建築界の巨人。バルセロナの建築学校で学び、1878年に建築家の称号を獲得。大胆で幻想的かつ独創的な作風で、自然の中にみられる有機的構成の局面曲線を主体にした独自のアール・ヌーヴォー様式を生み出し、シュールレアリズムの先駆者。作品のほとんどがバルセロナおよびその周辺に集中し、「グエル公園」(1900~14)、「カサ・ミラ」(1910)などが代表作であり、数々の建築物を手掛け、総合芸術として建築を目指した。1883年にはサグラダ・ファミリアの選任建築家に就任するが、建築中に交通事故でその生涯を終える。また、ガウディが手掛けたサグラダ・ファミリアは現在も建築中である。
1852年6月25日、バルセロナ付近のカタルーニャの町レウスでガウディは生まれる。銅板器具職人の息子として生まれたガウディは、幼少時から立体造形に非凡な才能を見せており、彼は建築家になることを早くから決めていたという。当時、スペインでは建築家は医師や弁護士と同等に社会的地位の高い職業であり、その資格を得るのは簡単ではなかった。しかし、ガウディは苦学を重ねてバルセロナの建築学校を卒業し、晴れて建築家となったのである。その後、建築家として働き始めるが、駆け出しのころは街頭ランプやショーウィンドウのデザインなど小さな仕事しかなく、不満を抱えた時期もあったが、大富豪グエル伯爵の目に留まり、建築家としての道が開けてくる。グエル伯爵はガウディの才能に惚れ込み、大きな仕事を次々に依頼し、彼はその期待に応えるように「カサ・ミラ」や「グエル邸」、「グエル公園」など、後世に名を残す大作を発表した。
ガウディは、1884年に建築家フランシスコ・ビリャールの跡を引き継いで、バルセロナのサグラダ・ファミリア(聖家族)教会の専任建築士となった。この教会は、75年に着工され、82年にビリャールによって幾分かネオ・ゴシック色が与えられ、ガウディはこの建物に彼が持てるすべてを投入した。しかし、ある晩、ガウディは市街の路面電車にはねられるという交通事故に遭った。怪我を負った彼の姿は、まるでホームレスのような貧しい身なりであり、人々はまさかこの老人が偉大な天才建築家と称されるアントニオ・ガウディだとは思いもせず、充分な治療を受けることなく慈善病棟に運ばれた。そして、彼の知人が彼であると確認した時には、もう手遅れで、ガウディは事故の三日後に息を引き取った。73歳であった。
華々しい建築家としての実績と裏腹に、ガウディの素顔は孤独だった。ガウディの性格は内気で口下手であり、人並みに女性には興味はあったものの、恋人がなかなかできず、ついには「私が結婚することは天命ではなかった」と、結婚を完全に諦め、その孤独感を信仰に向けたのである。ガウディは神の愛に目覚め、キリスト教に没頭するようになる。人生の後半になると、宗教建築以外の仕事はすべて断り、サグラダ・ファミリアの地下に移り住むほど、聖堂建築にすべてを注いだ。この結果、前述したように交通事故に遭い、アントニオ・ガウディ本人だと気づかれることなく最期を迎えるに至ったのである。
〈参考文献〉
編集代表・桑原武夫 1980 世界伝記大辞典3<世界編> 株式会社ほるぷ出版
発行者・大高利夫 1995 20世紀西洋人名辞典1.ア~ノ 日外アソシエーツ株式会社
著者・山口智司 2007 トンデモ偉人伝-臨終編- 株式会社彩図社