アンネ・フランク3

出典: Jinkawiki

1929年、ユダヤ系ドイツ人の父オットーと母エーディトのもとに次女として生まれる。3歳年上の姉マルゴットと二人姉妹。父は銀行家で一家は比較的裕福であったが、銀行業も世界的な不況から立ち直れずに業績は悪化していた。1933年、ナチ党党首アドルフ・ヒトラーがドイツ国首相に任命され、反ユダヤ精神であったヒトラーに危機感を抱いたユダヤ系ドイツ人たちは次々と国外へ亡命。父オットーは、既にスイスへ移住していたアンネの叔父から、オランダへの亡命と叔父の会社のオランダ支社の経営を勧められる。オットーは申し出を受け、フランク一家はオランダ・アムステルダムへ移住する。1939年9月、ドイツ軍のポーランド侵攻により第二次世界大戦が始まり、オランダは中立を宣言するも1940年5月、ドイツ軍がオランダへ侵攻。ドイツ空軍によるロッテルダム空襲の後、オランダ政府は降伏文書に調印し、侵攻から一週間足らずでドイツ軍占領地となった。占領当初、ドイツは穏健な態度をとり、しばらくアンネの生活に大きな変化はなかったが、徐々にユダヤ人迫害を強化した。1941年5月には公園、競馬場、プール、公衆浴場、保養施設、ホテルなど公共施設への立ち入りを禁止。1941年8月にはユダヤ人学校以外に通えなくなり、アンネもユダヤ人中学校へ転校することとなった。1942年6月12日、アンネの13歳の誕生日に父からサイン帳を贈られる。アンネはこのサイン帳を日記帳として、「キティー」と名付ける。そこからドイツのゲシュタポに捕まるまで(1944年8月1日)のおよそ2年間、アンネは日記を書き続けた。その後、ドイツの総力戦体制が強まり、ユダヤ人狩りが頻繁に行われる。危険が迫っていると判断した父は、会社が入っている建物の中に隠れ家を設置して身を隠す準備を開始。そして1942年7月、姉マルゴーに召集命令通知が届けられると、父オットーは潜伏生活を始めることをついに決断する。隠れ家には、フランク一家の他にファン・ペルス一家、歯科医プフェファーも合流し合計8人で同居することとなった。そして、1944年8月、ゲシュタポに隠れ家を発見され、全員がナチス強制収容所へと移送される。アンネは姉とともにベルゲン・ベルゼン強制収容所へ送られるが収容所の不衛生な環境に耐えぬくことができず、姉妹はチフスにかかり、1945年3月、先に姉マルゴーが、数日後にアンネが息を引き取った(満15歳没)。 出典:アンネ・フランクの名言・格言集。アンネの日記から|癒しツアー URL:http://iyashitour.com/archives/22275


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