アンネ・フランク5

出典: Jinkawiki

目次

アンネ・フランク

 ユダヤ系ドイツ人の少女である。反ユダヤ主義がひどくなり、アンネとその家族はナチスの迫害から逃れるためオランダのアムステルダムに亡命した。隠れ家に身を潜めていたものの、1944年8月4日にナチスに見つかり、強制収容所に送られ衰弱のために15歳の命を落とした。隠れ家で毎日の出来事や、戦争や平和、民族の運命などの内容が書きつづられた『アンネの日記』は有名である。

生涯

反ユダヤ主義の広まり

 1929年6月12日、アンネはドイツのフランクフルト・アム・マインでオットー・フランクとエーディト・フランク=ホレンダーの間に次女として誕生した。姉としてマルゴット・フランク(愛称はマルゴー)がいた。オットー・フランクは家族の所有する銀行で働き、フランク家はドイツ国民の中でも比較的裕福な家庭であったが、その頃のドイツは経済危機におかれていたため、銀行業もうまくいかなくなっていた。またドイツ国内ではアドルフ・ヒトラー率いる反ユダヤ的考えを持った国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の支持が急速に高まっていた。いつアドルフ・ヒトラーが首相に任命されてもおかしくないと言われてた頃、とうとう1933年1月30日、ナチ党の党首であったアドルフ・ヒトラーが首相に任命され、ドイツの政権を獲得したのである。反ユダヤ主義デモも行われるようになり、これからのドイツの政治に不安感を覚えたユダヤ系ドイツ人達は次々とドイツ国外へ亡命していった。すでにこの頃ドイツでは、学校などでユダヤ人とそうでないものを分け、反ユダヤ主義に逆らう教師などは停職させられるなど、ちゃんとした教育を受けられる状況ではなかった。フランク家もこのままドイツに残ることに不安があったため、オランダ・アムステルダムへ亡命することとなった。最初の頃は仕事も住居も安定しなかったが、アムステルダム・ザウト地区にちょうど良いアパートを見つけそこに住むこととなった。そこには同じく迫害を逃れてドイツから亡命してきたユダヤ人が多く暮らしていた。

オランダ侵攻と占領下の生活

 1939年に始まった第二次世界大戦に対し、オランダは中立の立場を示していた。しかしヒトラーはオランダがイギリス軍機がドイツ空爆のために領空を通過することを黙認しているため、中立の立場を放棄しているとしドイツ軍をオランダに侵攻させた。オランダ国内はパニック状態となり、多くの者がオランダ脱出を試みたがほとんどが失敗に終わっている。オランダはロッテルダム空襲などを受けドイツに降伏し、一週間もたたないうちにオランダ全土はドイツ軍占領地となったのである。

 ヒトラーはオランダ駐在国家弁務官としてザイス=インクヴァルトを任じていたが、占領直後のオランダには行政機能の急激な変化や、反ユダヤ主義の考えもすぐに持ち込まれることはなく、アンネ達も変わらない日々を過ごしていた。しかし、ドイツ情勢が安定してきたころからユダヤ人への迫害が始まっていったのである。オランダ国籍以外のユダヤ人は氏名と住所を登録するよう命じられ、さらにはドイツから亡命したユダヤ人はその旨を登録することになった。次第にユダヤ人は映画館、学校などに行くことも拒否され、さらに公園、プール、保養施設、ホテルなど公共施設でさえも立ち入りを禁止されるようになった。1942年4月29日にはオランダ、フランス、ベルギーに住むユダヤ人は黄色いダビデの星を着用することが義務付けられることとなった。

隠れ家での生活と逮捕

 ユダヤ人狩りが頻繁に行われるようになり、フランク家はアムステルダム・ヨルダーン地区プリンセンフラハト通り263番地にある建物の中に隠れ家を用意した。そしてマルゴーにユダヤ人移民センターへの召集命令通知が届き、命令に従うのは危険であると判断したフランク家は隠れ家で本格的に身を隠す生活を始めたのである。隠れ家に通じる扉には本棚が設置してあり、外から分かりにくくしてあったという。しかし1944年8月4日、アンネ達の隠れ家はドイツ秘密警察ゲシュタポのジルバーバウアーらにより、ゲシュタポ本部に連行されてしまったのである。ゲシュタポは密告を受けて出動していたが、密告者は未だにわかっていない。

家族との別れとアンネの死

ヴェステルボルク収容所に連れていかれ、アンネは電池の分解作業に割り当てられていたという。後にポーランドのアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所に移送列車で連れていかれることとなった。到着と同時に男女で分けられ、ここでアンネとオットーとは別れることとなってしまう。またこの後労働不能の者はガス室送りとなったが、フランク一家は労働可能とされ、ガス室送りを免れた。女性や子供は女子収容施設に入れられ、男性はアウシュヴィッツ強制収容所に行くこととなった。またベルゲン・ベルゼン強制収容所へ行く者の選別の際、アンネとマルゴーが行くことになり、ここで母エーディトと最期の別れとなった。ベルゲン・ベルゼン強制収容所は環境が悪く不潔な場所であり、病が流行していた。食べ物もほとんど与えられなかったため病死者や餓死者が続出していた。アンネもこの収容所でチフスにかかり、衰弱して命を落とすことになった。

参考文献

  • アンネ・フランクの隠れ家における生活。ユダヤ人大虐殺とホロコーストの怖さ。[[1]]
  • Google Arts Culture[[2]]
  • アンネ・フランク[[3]]

Y.S


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