イベリア半島
出典: Jinkawiki
イベリア半島はヨーロッパの南西に位置する半島である。イベリアの名は、古代ギリシャ人が半島先住民をイベレスと呼んだことに由来する。しかし、もともとは漠然とピレネー山脈の南側に広がる地域を指した言葉である。一方、イベリア半島を属州としたローマ人たちは、この地をヒスパニアと呼称したが、このラテン語に由来して現在の「スペイン」は「イスパニア」とも「エスパーニャ」とも呼ばれるようになった。
概要
面積は、約59万平方キロ、形状は東西約1100キロ、南北約1000キロのほぼ方形をなす。北緯44度と北緯36度、西経9度と東経3度の間に広がっている。半島の付け根にあたる北東部は、幅約30キロにわたりピレネー山脈によってフランスと画されている。一方、南西端は最も狭いところが約14キロのジブラルタル海峡を挟んでアフリカ大陸と向かい合っている。 半島の周囲八分の七にあたる4000キロを上回る海岸線は、古くから地中海と大西洋に大きく開かれている。それはスペイン領の地中海にはバレアレス諸島があり、モロッコ沖のカナリア諸島という中継地が大西洋への進出を容易にしてきた。また、ピレネー山脈の両端は、決して交通を妨げるものではなかった。この地理的な独自性がイベリア半島の歴史を作ってきた。 • 北にはピレネー山脈、ビスケー湾、カンタブリア海 • 南にはジブラルタル海峡、アフリカ • 東には地中海、バレアレス諸島 • 西には大西洋
歴史
旧石器時代 イベリア半島に人類が居住していた形跡は約50~40万年前に溯る。これら最古の住人は原人類で、火を使い、石斧・石刃をはじめとする石器をつくり、洞窟に住んでいた。1848年、半島南端のジブラルタル付近で化石人類の人骨が発見された。その後も数カ所で発見された化石人骨は、いずれもネアンデルタール人に属する。約20万年前頃には活動しており、氷河期最後のビュルム氷河期までその活動は続いた。現生人類のホモ・サピエンスの活動は、このビュルム氷河期に始まった。クロマニョン人がピレネー山脈を越えてフランス方面からやって来たと見られている。
新石器時代 約1万年前に氷河時代が終わり、気候は温暖化した。地質年代では、完新世に入った。この頃のイベリア半島では、人類の活動は低調であった。 新石器時代と明確な区分はないが、紀元前2500年頃に青銅器時代に入る。はじめに銅器が、次いで青銅器が用いられるようになった。これらの金属器は、地中海を渡って伝搬してきたが、鉱山資源が豊富な半島なのでそのうちに自作するようになった。農耕文化受容の拠点であったアルメリアでは、早くから銅器が用いられ、紀元前2000年頃に最盛期を迎えた。紀元前1500年頃には青銅器の使用が始まり、紀元前100年頃まで繁栄した。
古くはローマ帝国の支配にまで遡る。ローマ帝国滅亡後はゲルマン系の西ゴート王国の支配下に置かれるが711年ウマイヤ朝の攻撃により西ゴート王国は滅亡、イスラム史上最初の世襲イスラム王朝であるウマイヤ朝が代わって支配することになる。ウマイヤ朝が滅亡するとその子孫がイベリア半島へ逃亡、後ウマイヤ朝を建てる。
一方北部にはアラゴン王国やレオン王国、カスティーリャ王国、ポルトガル王国などのキリスト教国が建国され、レコンキスタを推し進めていった。1031年には後ウマイヤ朝が滅ぼされ、その領域であったイベリア半島南部は同じくイスラム王朝のムラービト朝、その後ムワッヒド朝の支配下に置かれることになる。
次第に力をつけていったキリスト教国は次第にイスラム王朝を南へ南へと圧迫し、その支配領域を広げていく。1479年にはアラゴン王フェルナンドとカスティーリャ女王イサベルの結婚によりスペイン王国が成立、レコンキスタに拍車がかかり、とうとう1492年にはイベリア半島最後のイスラム王朝であるナスル朝が滅ぼされ、イベリア半島からイスラム王朝は完全に駆逐された。
以降はスペインとポルトガルがイベリア半島を支配することになった。
参考文献
立石博高編『新版世界各国史16 スペイン・ポルトガル史』山川出版社 2000年
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