イラク戦争3

出典: Jinkawiki

イラク戦争(イラクせんそう)は、2003年3月20日よりアメリカ合衆国が主体となり、イギリス、オーストラリアに、工兵部隊を派遣したポーランドなどが加わる有志連合が、イラク武装解除問題の進展義務違反を理由としてイラクに侵攻したことで始まった戦争である。正規軍同士の戦闘は2003年中に終了したが、後にイラク国内での治安の悪化が問題となり、現在でもイラク国内での戦闘は行われている。戦争の終結時期については解釈が分かれるが、現在も少なくとも武力紛争状態は継続している。


開戦までの経緯

2001年 2001年に就任したジョージ・W・ブッシュ大統領は、就任直後から査察に対するイラクの非協力姿勢を問題にしていた。この頃からアメリカとイギリス国内でイラクに対する強硬派の主張が高まり始めた。イラクに対する強硬論が高まった背景としては、国連主導の経済制裁に緩みが発生し、密貿易で資金を調達したイラクが軍備の増強を行っているという観測があった[12]。2月には完成しつつあるイラクの防空網を破壊するための英米軍による空爆が行われた。

6月、アメリカとイギリスは2001年11月に期限が切れる『石油と食糧の交換計画』に代わるイラクに対する経済制裁案である「スマート・サンクション」の導入を提案した。しかし、ロシアの強硬な反対により、従来の制裁が継続されることになった(国際連合安全保障理事会決議1328)。

9月11日、アメリカで同時多発テロ事件が発生した。世界でテロに対する非難やアメリカに対する哀悼のコメントが寄せられる中、イラク国営放送は第一報として対米テロ攻撃を「世紀の大作戦」と賞賛し、「アメリカがこれまで犯してきた人道に対する犯罪に対する当然の仕打ち」であり、「アメリカの力の象徴が破壊されたことはアメリカの政策の崩壊である」、とコメントした[12]。この報道はイラクに対するアメリカ側の心証を悪化させたものの、アメリカ政府はテロ事件発生後一か月間はむしろイラク政府の関与に否定的なコメントをしていた[12]。10月20日になって、フセイン大統領はアメリカ市民に対する弔意をはじめて示した。

しかしこの頃からアメリカ政府内では対イラク強硬派であるジェイムス・ウールゼイ元CIA長官やポール・ウォルフォウィッツ国務副長官、リチャード・パーレ国防総省国防政策局長等の発言力が強まり、イラクに対する強硬発言や言動が取られる機会が増加した。


2002年 ブッシュ大統領は2002年初頭の一般教書演説において悪の枢軸発言を行い、イラク、イラン、北朝鮮は大量破壊兵器を保有するテロ国家であると名指しで非難した。特にイラクに対しては、長年要求し続けた軍縮の進展の遅さと、大量破壊兵器の拡散の危険を重視し、02年に入って政府関連施設などの査察を繰り返し要求した。

2002年11月8日、イラクに武装解除遵守の『最後の機会』を与えるとする国際連合安全保障理事会決議1441が全会一致で採択された。イラクは「悪の集団」による「邪悪な決議」と非難したが[13]、UNMOVICの受け入れを容認し、4年ぶりに全面査察に応じた。また、決議には30日以内に報告するという規定があったが、イラクは「邪悪な決議」であることを理由に期限の延長を申し出たが、受け入れられなかった。12月7日にイラクは膨大な量の申告書を提出した。


2003年 2003年1月9日、UNMOVICのハンス・ブリクス委員長とIAEAのモハメド・エルバラダイ事務局長は安全保障理事会に調査結果の中間報告を行った[14]。この中で、大量破壊兵器の決定的な証拠は発見されていないものの、昨年末に行われたイラク側の報告には「非常に多くの疑問点」があり、申告書には「矛盾」(#大量破壊兵器捜索を参照)があるとした。また、イラク側が国連ヘリコプターによる飛行禁止区域の査察を拒否するなど、査察非協力も明らかになった[15]1月16日には申告書に記載されていなかった化学兵器搭載可能なミサイル12基がUNMOVICによって発見された。このためアメリカとイギリスは、イラクが安保理決議1441に違反したものとして攻撃の準備を始めた。

2月14日から2月16日にかけてカトリック教徒でもあるイラクのターリク・ミハイル・アズィーズ副首相はバチカン、イタリアに渡りローマ教皇ヨハネ・パウロ2世と会談するなどして戦争回避姿勢を国際社会にアピールした。

3月7日、UNMOVICは2度目の中間報告を行った。アメリカは査察が不十分であるとして、攻撃に関する決議採択を行おうとしたが、フランスは査察期限の延長を求めた。このため決議否決の可能性が高まり、アメリカとイギリスは決議無しでの攻撃に踏み切ることにした。

2003年3月17日、先制攻撃となる空爆を行った後、ブッシュ大統領はテレビ演説を行い、48時間以内にサッダーム・フセイン大統領とその家族がイラク国外に退去するよう命じ、全面攻撃の最後通牒を行った。しかし、フセイン大統領は徹底抗戦を主張して応えなかったため、2日後の3月19日(アメリカ東部標準時)に予告どおり、イギリスなどと共に『イラクの自由作戦』と命名した作戦に則って、攻撃を開始した。


イラク攻撃にはフランス、ドイツ、ロシア、中華人民共和国などが強硬に反対を表明し、国連の武器査察団による査察を継続すべきとする声もあったが、それを押し切った形での開戦となった。これら国々の反対の裏には人道的な反対というより、フセイン政権との関係やイラクの石油利権に絡んでいるとする意見もある。アメリカ国内の世論は武力介入には高い支持を与えたものの、国連の支持なしの攻撃には必ずしも国論は一致していないとされた。

一方、かねてよりフセイン政権と対立していたイスラエルは、2002年4月にネタニヤフ元首相が訪米して「フセイン大統領は核兵器を開発中である」とその脅威を訴えたのを皮切りに、同年5月にペレス外相がCNNの取材に「サッダーム・フセインは(米同時多発テロ事件首謀者とされる)ビン=ラーディンと同じくらい危険」と答えた。シャロン首相も、イラクへの早期攻撃を求めた[16]。また、ヘブライ大学のシュロモ・アヴィネリ教授は、『ロサンゼルス・タイムズ』にイラク戦争反対派を1930年代ナチス・ドイツへの宥和政策になぞらえて非難する論文を発表。宥和政策の否定は開戦支持派の有力な主張となった。

また、アメリカに合わせて武力行使を積極支持したイギリス・ブレア政権の閣僚が相次いで辞任を表明し、政府の方針に反対した。3月17日クック枢密院議長兼下院院内総務、3月18日ハント保健担当・デナム内務担当両政務次官が辞任。結果としてブレア首相は議会の承認を早急に採りつける必要に迫られた(BBCニュースの記事に更に詳細なリストがある)。

出典http://www.dismas.jp/dic/%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%82%AF%E6%88%A6%E4%BA%89


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