イラク戦争10

出典: Jinkawiki

--Bunkyo-studen2008 2013年8月5日 (月) 22:22 (JST)


2003年3月19日からアメリカ合衆国が主体となって、イギリス、オーストラリアとともにイラクを空爆し、20日に侵攻を始めた戦争のこと。2004年10月にアメリカの勝利宣言で終戦したのだが、現在も武力紛争状態が続いている。 2006年11月時点で、イラク人だけでも約15万人、米軍約3千人の死亡者が出ている。 それだけではなく、「イラク戦争後に生まれてくる子供たちに生まれつき手がなかったり、目が見えないような先天的障がいがある子が多いという調査結果が出ていて、医師たちは、米軍の使用していた劣化ウラン弾などの兵器が影響しているのだと考えている。」

  参考:[1] 

開戦の経緯

イラク戦争の開戦には、それ以前のアメリカの揺れ動く対応が事態を深刻にしたという経緯がある。

イラン・イラク戦争 1979年にイラクで成立したサダム・フセイン政権が、イランで起きたイスラム革命によって反対勢力が増えてしまうことを危惧して先制的にイランに攻め込んだ戦いのこと。さらにイラクには国境線を引き直すという目的もあった。このときアメリカは双方を支援していた。

湾岸戦争 1990年、石油を独占しようとしたクウェートにイラクが侵攻したのがきっかけで始まった戦争。表向きにはアメリカがクウェートの依頼でイラクの襲撃を阻止し、世界の平和の実現に向けてアメリカの存在は大きいものだと印象づける戦いになったが、「実際はクウェートがイラクを挑発して、アメリカが冷戦終結後に軍事費を保持するための敵役としてはめられたのではないかとも考えられている。」

イラク戦争 開戦にはイラン・イラク戦争、湾岸戦争、9.11アメリカ同時多発テロが深く関係している。当時、アメリカのブッシュ大統領は、「フセインの独裁政治からの国民の解放」、「イラクの大量の核兵器の保持」を侵攻実行の目的にあげてイラクを完全に敵視していた。しかし、アメリカはフセインを倒すのに絶好の時が来ても行動に移ることはなかった。それには、イラクのフセインを拘束したあと、隣国のイランなどが台頭してくるのを回避するのと、冷戦終結後に新しい敵が必要だったという国家の理由があったのではないかという考え方がある。核兵器についてはアメリカが査察員を派遣したのに対して、イラクは非協力的な態度をとっていたが、アメリカ内部でも右派と中道派で意見の対立があった。イラク戦争はイラクが核兵器を所持しているという明らかな証拠がないなかで押し切られたが、のちにアメリカは当時の判断が誤っていたことを認めている。


イラク戦争と日本の関わり

日本は湾岸戦争の時、金銭的には高額な貢献をしたのだが、危険なことからは逃れていると外国からの評価が少なかった。ここでの出来事が日本の外交面では大きな転機となっていて、イラク戦争では自衛隊を派遣して国際的に「行動」による貢献も果たしたことを知らしめたのであった。イラク戦争後のアメリカの占領は、日本のGHQによる占領政策と似ているが、その意味するところは正反対だとされている。 なぜなら、イラクの占領政策ではのちに新生イラクの建国を見据え、イラクの油田も、自国が管理することを主張する中道派の考えが優勢だったからである。



参考文献 『イラクとパレスチナ アメリカの戦略』  田中 宇        2003年1月20日発行  発行所 光文社

      『イラク戦争 ~検証と展望~』  寺島 実郎、小杉 泰、藤原 帰一        2003年7月4日発行   発行所 岩波書店


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