イラク戦争25
出典: Jinkawiki
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イラク戦争について
2003年3月20日に有志連合軍は、バグダードを始めとするイラク各地に大規模な空爆を行い、イラク戦争を開始した。攻撃に参加した国は、米、英、オーストラリア、ポーランドの四ヵ国で、総兵員26万3000人という数は、湾岸戦争の際に組まれた多国籍軍に比べて圧倒的に小規模である。 それでも、侵攻は順調に進んだ。南部クウェートから地上部隊が北進し、南部の諸都市を次々に制圧した後、4月9日にバグダードに入り、市中心街のひとつ、フィルドゥース広場にあるフセイン像を引き倒した。イラク軍の抵抗はほとんどの地域で見られず、バグダードへの米軍侵攻も静かに迎えられえた。四半世紀の間、独裁体制を築いてきたフセイン政権に対する不満は、イラク社会全体に広がっていたためである。2003年のイラク人に対する世論調査では、8割方が「フセイン政権が終わったことを歓迎する」としていた。 これをもって実質的なフセイン政権の崩壊とされ、残る北部の諸都市もモースルが11日に、ティクリートが15日に米軍の手に落ちた。5月1日、ブッシュ大統領は「主要な戦闘の終了」を宣言し、「戦争」としてのイラク戦争は、わずか42日で終わった。その間の米軍の死者は139人だった。
なぜアメリカは攻撃をしたのか
イラク戦争開戦の判断を何をもって行ったかについては、さまざまな説がある。イラクの石油資源が目的だったという意見もあるが、戦後の治安悪化を考えれば、米企業は期待したような利益をイラクから上げられたわけではなかった。 1991年の湾岸戦争で敗北したフセイン政権が、湾岸戦争後も倒れなかったので、10年ぶりに強引に政権交代をやってしまおう、という側面があったという側面も考えられる。アメリカとイラクの関係は、1990年にイラクがクウェートに侵攻したことで、一気に悪化、翌年の湾岸戦争で決定的に敵対関係に至っていたからだ。 90年代に繰り返し実施された国連による大量破壊兵器査察では、多くの長距離ミサイルが発見され廃棄されるなど、前半にかなりの成果を上げた。しかし後半になると、イラク政府側の協力が十分でないとみなして、査察活動は強引なものとなっていたため、イラクは国連の査察を拒否した。2002年になって、アメリカはそれを激しく問題視し、国連の査察では大量破壊兵器を見つけられないとして、イラクに対する軍事攻撃を主張したのだ。
ずさんな戦後処理
戦後イラクの占領統治に入った米軍とブッシュ政権は、おそらくもっとも歓迎されざることを行った。壊さなくていいものを壊し、残すべきものを排斥し、なかったものをあったといい、つながっていなかったものをつながっているとし、結果として呼び覚ます必要のない国民の不満を掻き立てたのだ。戦後改革を進めたが、アメリカが主張する「民主化」を形式的に進めることばかりに力点が置かれ、住民の生活の安定を確保する措置は二の次とされた。制度的な民主化が進むにつれ、乱立した政党組織は、機能し、イラク社会の移行を反映しなかったことは、民主制度の進展と反比例するように国内の治安が悪化したことからわかる。イラクに駐留していた米軍は、これらの制度面での達成を理由に、2011年末には米軍の撤退を実現したが、実際にはイラク国内の治安悪化で破る米軍の被害に耐えがたい状態にあったからである。
ISを生んだもの
イギリスのイラク戦争参戦経緯と戦後処理を検証する独立調査委員会は、2016年夏に膨大な報告書を発表。そこではブレア政権が正しくない判断に基づきイラクを武力攻撃し、イラク戦争後の対処も十分ではなかったことが激しく糾弾されている。つまり、イラク戦争が理も大義もない戦争だったということが、開戦から13年を経て、開戦当事国の公的な機関で認められた。無責任でずさんに行われたイラク戦争によって、イラクは秩序が崩壊し、政治は不安定化し、経済は停滞するという悲惨な運命をたどることになった。
参考文献 酒井啓子(2018)『9・11後の現代史』株式会社講談社