イラク4
出典: Jinkawiki
イラクについて
イラン・イラク戦争
イラン・イラク戦争は、1980年9月22日イラク側の攻撃によってはじまり、1988年8月20日国際連合安全保障理事会の決議が受け入れられて、停戦した。戦争の直接原因は、イランとイラクの国境を流れるシャットルトルアラブ河の帰属問題である。子の帰属は複雑な歴史的経緯を経ている。1847年にイランのガージャール朝と当時イラクを支配していたオスマン帝国の間で、川自体がオスマン帝国に属するものと定められ、1913年のオスマン帝国・ペルシア間合意では、シャットルアラブ河をオスマン帝国の主権のもとに置く、つまり今のイラク領とすることが決められた。第一次世界大戦後、この合意はいったん廃棄されたが、イラクを間接統治していた英国人顧問が、サルウェグ原則を進言し、1937年のテヘラン条約でこの原則を一部に適用し、この地域のみにおいてシャットルアラブ河は、イラン・イラク半々となった。イラン・イラク戦争は、こうしたシャットルアラブ河をめぐる複雑な歴史的背景とともに、イラン・イラク双方の当時の複雑な内政に起因して勃発した。イラクでは、1979年7月サダム・フセインが大統領に就任し、1980年9月イランに対して軍事攻撃を開始した。フセインは、この戦争でイランの革命政権を倒すことにより、中東の雄になる政治的野心を持っていた。
バーキル・サドルのイスラーム国家体制の樹立
現代イラクには世俗的な独裁政権が続いてきた。そしてイスラームに基づいた国家を形成しようとする構想や動きが歴史的にしばしば動員力を持ってきた。2003年のイラク戦争後に政権を掌握したダアワ党をはじめとするイスラーム主義政党は、こうしたイスラーム国家体制の実現を目標にして、活動を展開した。バーキル・サドルはダアワ党の結成にかかわった1950年代には「シューラー合議制度に基づくウンマの政治」と呼ばれる統治構想を掲げていた。シューラー制度とは預言者ムハンマドの時代にまでさかのぼることができるイスラームの伝統的な制度で、ウラマーや有識者が集まり、合議によって政治や社会の重要な意思決定を行う仕組みである。バーキル・サドルのイスラーム国家体制の要点は、イスラーム法が適切に施行されることを担保にするためにウラマーの最高権威が国家の長になることと、行政や財政の制度の整備、国民の政治参加を認めることにあった。
参考文献
松本一弥(2011)『55人が語るイラク戦争:9・11後の世界を生きる』岩波書店 酒井啓子、吉岡明子、山尾大(2013)『現代イラクを知るための60章』赤石書店 chen