イースター島
出典: Jinkawiki
地理
位置は、チリの首都であるサンディエゴから西へ3,700km、タヒチから東へ4,000kmの太平洋上に位置する。島の周辺海域はペルー海流が渦巻き、近海は海産資源豊富な漁場(とくにカタクチイワシ)になっている。島の全周は60kmほどで、面積は180平方kmである(北海道利尻島とほぼ同じ)。小さな火山島。島全体が、ラパ・ヌイ国立公園としてチリ政府により国立公園に登録されている。また1995年に世界遺産に登録されている。絶海の孤島であり、最も近い島(サラ・イ・ゴメス島)でも東北東に415kmも離れている。人の住む最も近い島(ピトケアン島)からでも、約2,000kmの距離がある。
イースター島について
現在、この島にはそのミステリーに惹かれ、世界中から観光客が訪れている。この島には有名なモアイ像があり、小さなものから、20メートルに及ぶ巨大なものまであり、建造途中だったと思われる途中の段階の像も残されている。これらのモアイ像が作られ始めたのは12世紀で、14世紀頃に盛んに作られたと考えられている。これらの神秘的な島に外部の人々が訪れたのは1722年のことであり、現在、この島の歴史を記憶する直接の島民や、記録などは残っていない。それは、これらの島人、記録などが後に島に訪れた人々によって連れて行かれ、記録も破壊されてしまったからである。現在残っている貴重な記録はほんの一部残った「コハウロンゴロンゴ」だけである。 先ほど紹介したようにイースターの島民のほとんどは奴隷として連れて行かれ、島に帰ることが出来た人々も外部の天然痘によってほとんどが死亡してしまった。そのため、現在残っている歴史はモアイが作られた12世紀の伝説を反映している話だけではなく、後からの創作による部分も多くなってしまっている。イースター島のモアイをめぐる伝説として有名なのは「モアイは魔力によって動かされ、ひとりでに歩いた」というものであろう。
モアイ像について
人々を惹きつけるモアイ像の建造の目的であるが、海神、信仰、墓地…など様々な仮説が立てられているものの、未だに完全な決着はみていない。モアイ像は海神である仮説は容易に想像出来るが、モアイ像のほとんどは島の外側の海ではなく、内陸を向いているので、島の神だった可能性も考えられている。また、モアイ像の製造方法、運搬方法もミステリーとして扱われてきた。当時、イースター島には2000人近くの島民がいたと考えられており、モアイ像の石は凝灰岩であることが分かっているが、この石は海岸には無く、ラノ・ララクという島内の山から切り出され、そこから丸太などを用いて運ばれた可能性が指摘されている。しかし、現在のイースター島には森などは見られない。当時は、どのような様子だったのだろうか。植物・地質学などの研究者は当時の土壌からサンプルをとり、発表には「モアイ像が作られ始めた時代には、椰子(ヤシ)が大量に生い茂っていたが、徐々に減少し、モアイ像が作られなくなったころにはごく少なくなっていた」と述べられている。 このような地質学的な調査結果を受け、「森が減少し、土地がやせ、島民は食糧を作ることが出来なくなり、同時にモアイも作られなくなった」という仮説が有力視されている。また、森の減少と共に様々な武器が増加していったということもこの説を支持するものとして受け入れられている。 イースター島。太平上の孤島で起きた真実。それを求め世界中の人々がその謎を追い求めてきた。現在では森の伐採によって資源が減少し、その結果として争いが起きたという仮説が有力視されているが、争いをせずに残った資源を利用してカヌーなどを製造して脱出出来たのではないかと考える研究者達もいる。イースター島が発見されると島民は奴隷として連れて行かれ、開放後、島に戻る途中で天然痘が蔓延し、島民のほとんどが死亡した。また、布教の際に、イースターの文字板「コハウロンゴロンゴ」が多数焼かれてしまい、現在はこれらのごく一部しか残っていない。