ウィーン体制

出典: Jinkawiki

ウィーン体制

概要

ナショナリズムと自由主義の影響は、1815年に調印されたウィーン会議の議定書に早くも現れている。ウィーン会議とは二度とヨーロッパ内での戦争を起こさないことを目的として、ナポレオン後の国際秩序を話し合うために開かれた会議だった。 会議に集まった各国の代表は、「フランスを封じ込める」ことによって、革命が各地に波及するのを阻止しようと考えていた。そのために用いられた手段が、ヨーロッパの保守主義の中心的イデオロギーだった政党主義(王朝主義)の復活と、領土の再分配である。その結果、プロイセンがライン川流域に大きな領土を獲得し、オランダ国王がベルギーとネーデルランドをまとめて治めるようになった。 ただし、政党主義だけで物事が片付いたわけではなく、革命政府やナポレオンが奪った領土は、必ずしも元の国に変換されなかった。それでも列島諸国は政党主義を掲げ続け、確かに一定の成功を収めることになった。そのご40年近くにわたり、この時に合意されたウィーン体制がたもたれ、戦争を起こさずに問題を解決していくことができたのである。1815年に成立した政治体制の大半は、いくぶん動揺したものはあったものの、40年後になってもまだ健在だった。

シャルル10世の失脚

ウィーン体制をとるなかで、フランス革命の成果とはいったいなんだったのかという問題が生じた。たとえば革命前に支配層の仲間入りを目指していた人々が、すでに大きな発言力を獲得していた。伝統的な貴族、革命時代の成功者、ナポレオンのとりまき、裕福な地主や実業家など、まとめて「名士」と呼ばれる人々が、いまやフランスの真の支配者となっていったのだ。さらに、いかなる個人も団体も、フランス政府の手の届かない場所に存在することができなくなっていた。 革命によって政治上の思想に変化が起きたことも見落としてはならない。右翼と左翼、あるいは保守主義者との対立軸に、政争がくりひろげられるようになったのだ。シャルル10世が見落としていたものが、まさにこの点であった。1830年、シャルル10世は愚かにも自らに課せられた憲法の枠組みを逸脱して、事実上のクーデターももくろんだ。これに対してパリの民衆が蜂起し、7月革命を起こす。その結果、自由主義の政治家たちが革命の先頭に立ち、悔しがる共和主義者を尻目に新しい国王を誕生させた。


参考文献 ・「国際秩序‐18世紀ヨーロッパから21世紀アジアへ」 細谷雄一 中公新書  ・「帝都ウィーンと列国会議‐会議は踊る、されど進まず」 幅健志 講談社

HN・YOROP209


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