ウォルト・ディズニー
出典: Jinkawiki
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ウォルト・ディズニー
ウォルター・エリアス・ディズニー(1901~66)の仕事はマンガのアイデアから始まり、映画の制作にまで発展した。ハリウッドで43年以上にわたって活動し、その間、48のアカデミー賞、7つのエミー賞をはじめ数多くの賞を獲得した。『白雪姫』、『ダンボ』、『ファンタジア』といった長編マンガ映画を制作、マンガを立派な娯楽として世に定着させた。 ディズニーは、『メリー・ポピンズ』に代表されるようなファミリー向けの映画や、『消えゆく大草原』といった野生動物の記録映画など100本以上の作品を生み出した。現在、ディズニーが設立した会社は、娯楽産業のさまざまな分野で事業を展開、その規模は、最も想像力にすぐれた本人でさえ想像できないほどに成長している。
生い立ち
1901年12月5日、イリノイ州シカゴで生まれたウォルト・ディズニーは、ミズーリ州マースリン近くの農場を経営する両親によって育てられた。すでに子どものころから、その並はずれた才覚をかいま見せていた。わずか7歳のとき、自作のスケッチを近所の人たちに売っていた。 シカゴのマッキンリー高校に行くようになっても、芸術への関心を持ち続け、スケッチや写真の制作に没頭している。夜はシカゴ・フィルム・アート・アカデミーに通って勉強を重ねた。 第1次世界大戦が始まると、ディズニーは陸軍に入隊しようとした。出生証明書を提示できなかったために、年齢不足と見なされ不合格となる。そこで赤十字の一員としてフランスに渡り、救急車の運転手として働いたが、その救急車のボディを自作のマンガで飾った。 大戦後カンザスシティに落ち着くと、本格的にマンガ家としての活動を開始した。 1920年、カンザスシティフィルムアド社に勤務するかたわら、初めてアニメのキャラクターを生み出した。1922年5月に自力でラーフ・オ・グラムズ社(Laugh-O-grams)を設立。しかし、ディズニーは長く笑ってはいられなかった。あっという間に業績不振に陥ったからだ。そこでカンザスシティから雲隠れすることを決意、気を取り直し、若者らしい気概を持ってハリウッドを目指す。着の身着のまま、財産といえば、スケッチ道具とマンガのアイデアだけだった。
成功への階段
ディズニーの新たな挑戦も、偉大な企業が数多く産声を上げたところ、つまりガレージから始まった。 兄のロイとともに、ディズニー・ブラザーズ・スタジオ社を立ち上げた。その設立資金としてディズニーは、おじから500ドル、ロイから200ドル、そして自宅を抵当にしてやりくりしてくれた両親から2500ドルを、それぞれ借り入れている。その後まもなく、ディズニーはガレージを出てハリウッドにある不動産屋のオフィスの奥に移った。買い手がついた最初の作品は、ルイス・キャロルの「アリス」をもとにした一連の短編映画だった。 ミッキーマウスは1928年に誕生した。ディズニーがこのかわいいネズミを思いついた経緯を伝える逸話はいくつかある。最もよく語られる逸話はこうだ。 ある交渉で、当時最も受けていたキャラクター、オズワルド・ザ・ラビットの権利を放棄させられてしまった。この交渉の悲惨な結末をひきずったまま帰路についているとき、突然インスピレーションがわいた。ハリウッドに戻る列車の中で、1人で空想にふけりながら、昔のオフィスに頻繁に出没したネズミのことを思い描いたのだった。彼はこの新しいキャラクターにモーティマーという名前をつけようと考えたが、ディズニーよりも妻のほうに鋭いマーケティングの天分があり、名前はミッキーマウスがよいと主張した。 ミッキーは初のトーキーのマンガ映画『蒸気船ウィリー』でデビューを飾る。1928年11月、ディズニーがちょうど26歳のときだった。 その後ディズニーは、マンガ映画という枠の中で革新的な仕事を続ける。『シリー・シンフォニーズ』シリーズ(邦訳なし)では初めてテクニカラーを映画に導入、シリーズの一環として1937年、『白雪姫』を公開した。長編ミュージカルアニメは初の試みだったので、『白雪姫』を制作するリスクはきわめて大きかった。制作費200万ドルは1930年代、とりわけ大恐慌の真っ只中では、破格の金額だった。ディズニーはその事業の運命をこの作品の興行収入に賭けた。幸運だった。このあとも同様のギャンブルに勝ち続け、『ピノキオ』、『ダンボ』そして『バンビ』などの名作長編アニメを連発した。 1940年には、バーバンクスタジオ社で1000人以上のスタッフを率いて活動するまでになっていた。そのころのディズニーは触媒としての役割を果たしていた。というのも、1920年代の初期以来、彼自らは絵を描いてはいなかったからだ。
「私は小さな働きバチだ。あちこち訪ね歩き、花粉を集めてすべての花を元気づけるのが仕事だ」と語っている。 しかし、部下たちはディズニーに元気づけられていたわけではない。スタジオで働くアーティストらのすぐれた仕事を認めようとしないその態度に、多くの社員が不愉快な思いを抱いていた。絶えず神経質で偏執狂的な面をのぞかせ、厳格な規則をスタジオ全体に押しつけていた。仲間同士でディズニーの悪口を言っているのが見つかると、従業員はその場で容赦なく解雇された。自分はちょびヒゲが好きなことを棚に上げ、男性従業員にはヒゲの類を一切許さなかった。
転機と決断
1940年代の10年間、ディズニーのスタジオは労働争議にあけくれた。彼は「アメリカの理想を守る映画同盟」のメンバーだった。この同盟は映画産業に従事する「共産主義者、急進主義者そして変わり者」を見つけ出そうとする組織だった。1947年には下院の非アメリカ活動委員会で証言し、自分のスタジオで働く多くの従業員が共産主義支持者だと告発している。この証言のもたらした結果が人々の記憶から消え去るまでには、長い年月が必要だった。 第2次世界大戦によって、ウォルト・ディズニーの制作活動は一時的に休止される。この戦争中、ディズニーのスタジオ設備のほとんどは、アメリカ政府から依頼されたプロパガンダや保健衛生の映画制作に振り向けられた。スタジオが制作する政治色のない作品は、士気を高めるための短編喜劇映画が中心だった。 この大戦後、ディズニーは戦前と同じように自分の才能に磨きをかけ、多種多様な作品を制作した。それまでのマンガ作品に加え、人間の実写とアニメを合成した映画や、動物の生態を表現した『トゥルー・ライフ・アドベンチャー』などを世に送り出した。 1955年、ディズニーは新たな方向に向け、そのブランドの舵を切る。カリフォルニア州アナハイムに建設したテーマパーク「ディズニーランド」の狙いは、ディズニー映画を現実の世界に出現させることだった。子どもも大人も一緒に、映画のスクリーンから飛び出したお気に入りのマンガのスターと遊べる、そんな魔法の国の建設だった。 これと同時に、ディズニーはテレビ局に作品を売り込んでいた。当時、まだ新しいメディアだったカラーテレビ放送の番組が不足していた状況に目をつけ、『ワンダフル・ワールド・オブ・カラー』をテレビ局に供給している。 1960年代半ば以降、ディズニーは晩年をあるプロジェクトに没頭してすごした。ディズニーは、都市生活が抱える問題を解決しようと考え、未来の実験モデル社会(Experimental Prototype Community of Tomorrow:EPCOT、エプコット)を構想した。それがディズニーワールドの建設プロジェクトだった。 ディズニーワールドは1971年10月、フロリダ州に開園した。面積は約110平方キロ、その中にはホテル群、空港、そして11年後に完成した未来的なエプコットセンターが含まれる。カリフォルニア州にある姉妹施設と同様、ディズニーワールドも大成功をおさめた。しかし、1966年12月15日に他界したディズニー本人は、自ら生み出した計画の実現を目にすることはできなかった。
<参考文献>
http://diamond.jp/series/bizmanager/10019/?page=4
「創造の狂気 ウォルト・ディズニー」 ニール・ゲイブラー 著、中谷和男 訳