エカチェリーナ2世Ⅱ
出典: Jinkawiki
エカチェリーナ2世 / Екатерина II Алексеевна / Ekaterina II Alekseevna (1729年4月21日 - 1796年11月6日)
ロマノフ朝の第8代ロシア皇帝。在位 1762年6月28日 - 1796年11月17日。 プロイセンのフリードリヒ大王やオーストリアのヨーゼフ2世とともに啓蒙専制君主の代表とされる。ロシア帝国の領土をポーランドやウクライナに拡大し、大帝(ヴェリーカヤ)と称される。日本では従来「エカテリーナ」の表記が多かったが、原音により忠実な「エカチェリーナ」の表記が普及してきた。また、ドイツ語や英語由来の「カタリーナ」(Katharina II.)、「カザリン」、「キャサリン」などの表記もされる。
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プロフィール
北ドイツ(現在はポーランド領)ポンメルンのシュテッティンで貴族の娘として生まれ、ルター派の洗礼を受けゾフィー・アウグスタ・フレデリーケと名づけられた。弟が2人いたが、上の弟は12歳で、下の弟フリードリヒ・アウグストは、のちにアンハルト=ツェルプスト侯となる。 ゾフィーの父はプロイセン軍少将でアンハルト=ツェルプスト侯クリスチャン・アウグスト。母のヨハンナ・エリーザベトは、デンマーク王家オルデンブルク家の分家で北ドイツの小邦領主であるホルシュタイン=ゴットルプ家出身であったが、兄アドルフ・フレドリクはのちにスウェーデンの王位を継承した。 ゾフィーは2歳のときからフランス人ユグノーの家庭教師に育てられた。特に2番目の家庭教師バベ・カルデル嬢にはロシアへ行くまで教えを受けた。 それほどの美貌ではなかったが、生来の優れた頭脳を活かし、知性や教養を磨いて魅力的で美しい女性となる努力を重ねた。フランス語に堪能で合理的な精神を持った少女に育つ。乗馬も達者だったが、音楽は苦手だったと伝えられている。 本来家柄的にはとても大国の后妃候補に挙がる身分ではなかったが、母ヨハンナの早世した兄カール・アウグストがロシア女帝エリザヴェータの若かりし頃の婚約者であった縁もあり、ゾフィーはピョートル3世と結婚する。
エカチェリーナの戴冠
1762年にエリザヴェータ女帝が死去すると、夫ピョートルは皇帝に即位、エカチェリーナも皇后となった。ピョートル3世はプロイセン王フリードリヒ2世の信奉者であり、皇太子時代からエリザヴェータやロシア貴族と対立していた。 七年戦争では、ロシア軍がプロイセン領内に侵攻してフリードリヒ2世を追い詰めていたにもかかわらず、ピョートル3世が即位後にいきなり和約を結んだことが、ロシアの内外で不評を買った。 また、皇后エカチェリーナを退け、寵姫であったヴォロンツォーヴァを皇后に据えようとして、彼女の一族を重用した。ルター派信者のピョートル3世はロシア正教会にも弾圧を加えた。 これらのことから、ピョートルへの怨嗟の声は高まり、エカチェリーナ待望論が巻き起こった。 しかし、グリゴリー・オルローフの子を妊娠中だった彼女はすぐには動きが取れなかった。 4月に極秘に出産を済ませた後、1762年7月、エカチェリーナ皇后は、近衛連隊やロシア正教会の支持を得てクーデターを敢行した。 このとき、エカチェリーナは軍服の男装で自ら馬上で指揮を取ったとされ、その凛々しい姿の肖像画が残されている。オルローフ兄弟やエカテリーナ・ダーシュコワ夫人らの尽力で、近衛連隊を始めとする在ペテルブルグの主要な軍隊・反ピョートル派の貴族はエカチェリーナ側につき、ピョートル側についた重臣達も多くが咎めなく帰参を許されたこともあり、クーデターはほぼ無血で成功した。 在位6ヶ月のピョートル3世は廃位・幽閉され、間もなく監視役のアレクセイ・オルローフに暗殺されたという。公式には、「前帝ピョートル3世は持病の痔が悪化して急逝、エカチェリーナ2世はこれを深く悼む」と発表され、エカチェリーナ2世は自身の関与を否定したが、真相は不明である。 エカチェリーナが政務を執る事では一致したものの、ロマノフ家の血統でないどころか、ロシア人の血を全く引かない彼女自身の女帝即位には疑問の声もあり、嗣子パーヴェルを即位させてエカチェリーナは摂政に、という案もあったが、結局はエカチェリーナ自身が正式に女帝として即位することとなり、1762年9月、モスクワで戴冠式を行った。
治世
彼女は法治主義と法の前の万人の平等を唄った訓令を発しながら、その実、ロシアを統治するには貴族階級の協力が不可欠と考え、貴族の特権を拡大して農奴制を強化する政策を押し進めた。そのため農民の立場が悪化し、1773年にブガチョフの反乱が起こるが1775年には鎮圧する。 豪放磊落で派手好みのエカチェリーナ2世は積極的な外交政策を推進し、オスマン帝国との露土戦争や3回のポーランド分割などを通じてロシア帝国の領土を大きく拡大し、ボリショイ劇場や離宮エルミタージュ宮殿の建設にも熱心であった。対外的には啓蒙専制君主と見られることを好み、紛争における仲裁者の役割をしばしば努めようとした。これはそのままロシアの国際的影響力を高めるということでもあった。 1780年にはアメリカ独立戦争に際し、中立国としてアメリカへの輸出を推進した。ヨーロッパ諸国に働きかけ、武装中立同盟を結束させた。ポーランド分割も、ポーランド王位継承に介入してかつての愛人でポーランドの有力貴族家門に属するスタニスワフ・ポニャトフスキを推挙・即位させた事が遠因であった。
オスマン帝国との露土戦争(1768年-1774年、1787年-1792年)に勝利してウクライナの大部分やクリミア汗国を併合し、バルカン半島進出の基礎を築いた。 第一次ロシア・スウェーデン戦争で、ロシア艦隊はフィンランド湾でスウェーデン海軍に敗れはしたものの、英国とプロイセン王国の仲介により講和し、ロシアの国体には何の影響も及ぼさなかった。更にエカチェリーナ2世は、第2次、第3次のポーランド分割を主導し、ポーランド王国及びリトアニア大公国を消滅させた。 その後も啓蒙主義者のヴォルテールやディドロなどと文通を交わし啓蒙君主ぶりを発揮する一方、1789年のフランス革命には脅威を感じ、晩年には国内を引き締め、自由主義を弾圧した。外交面ではピョートル1世の路線を継承していた。 1791年にスウェーデン王グスタフ3世の提唱した「反革命十字軍」の誘いにも前向きであったが(10月には軍事同盟を締結する)、結成は難航し、グスタフ3世が1792年に暗殺された事で、革命への介入は取り止めとなった。
ロシアの文化・教育の整備にも力を注ぎ、英邁の誉れ高い女性側近ダーシュコワ夫人をアカデミー長官に据え、ロシア語辞典の編纂事業に着手、後世のロシア文学発展の基盤を造る。また、女子貴族のための学校「スモーリヌィ女学院」を設立し、ヨーロッパ諸国の宮廷・社交界に送り込む貴婦人の養成にも力を入れた。エカチェリーナ2世自身も文筆に勝れ、回想録、書簡、童話、戯曲などの文芸作品を残している。
私生活では12名ほどにのぼる寵臣と関係を持ち、売春婦とまで噂されたが、けして愛欲生活に溺れることなく、優れた知性と決断力を持って行動し、東方のならずもの国家だったロシアの国際的地位をヨーロッパ3大強国にまで押し上げた。
彼女は、無能な息子パーヴェルの変わりに孫アレクサンドルに帝位を継承させようと画策したが、その希望がかなえられようという寸前、1796年11月に脳卒中により死去した。
参考文献
『女帝のロシア』 小野理子 岩波新書
『女帝エカテリーナ』上下 アンリ・トロワイヤ 中公文庫