エジプト文明
出典: Jinkawiki
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古代エジプト
エジプトはアフリカ大陸の東北部に位置し、ナイル河がその国土を南から北へ流れ地中海へ注いでいる。緑地帯はナイル河の両岸のわずかな地帯のみであり、そのほかの地域は広大な砂漠となっており、高温で雨の少ない熱帯である。 ナイル河は、毎年定期的に氾濫するため、河岸には上流から運ばれてきた肥沃な泥土の沖積層があり、灌漑も容易であった。このため、農耕にとっての好条件がととのっており、早くから非常に豊かな農耕社会が成立した。大規模な治水と灌漑は流域の全市全村の共同作業を必要とし、BC3100年ころに統一国家を成立させた。 エジプトは海と砂漠に囲まれた閉鎖的な地形であるため、外敵の侵入が少なく長く独立を維持した。そして、その歴史は、比較的に停滞的であった。また、地理的に西南アジア方面に近く、シュメール文明と密接な関係があったようである。
エジプト古代史の時代区分
エジプト古代史は、ヘレニズムの歴史家マネトの年代記によって、統一王朝の成立からペルシアによる征服までの26王朝を次のように区分している。 1 初期王朝時代(第1~第2王朝) BC3100~BC2700 2 古王国時代(第3~第6王朝) BC2700~BC2200 3 第1中間期(第7~第10王朝) BC2200~BC2135 4 中王国時代(第11~第12王朝) BC2135~BC1800 5 第2中間期(第13~第17王朝) BC1800~BC1570 6 新王国時代(第18~第20王朝) BC1570~BC1090 7 末期王朝時代(第21~第26王朝)BC1090~BC 525
初期王朝時代
エジプトの第1王朝から第2王朝の期間を指し、BC3100年ころからBC2700年ころと考えられている。 多くの独立的な国々が上エジプト(エジプト南部のナイル河上流地方)と下エジプト(エジプト北部のナイル河下流地方)とに統合されて、互いに対立するようになっていたが、BC3100年ころに、上エジプトの王が下エジプトを併合して、統一国家を建設した。エジプトの第1王朝である。 伝説によれば、エジプトの最初のファラオをメネスといい、半神半人の支配者のあとをついだかれは、62年間おさめたあと、カバに連れ去られて殺されたとある。 メネス王は、エジプト語ではメニ、ヘロドトスの著した「歴史」ではミンとなっている。どの王がメネス王なのか、はっきりしていない。有力な候補としては、ナルメル王とホル・アハ王の2人があげられている。ナルメル王は、ヒエラコンポリスに石製の奉納用化粧版(パレット)を残しており、その表面には下エジプト王の赤冠をかぶったナルメル王が敵の死体検分に出かける場面が描かれており、裏面には上エジプト王の白冠をかぶったナルメル王が敵の首長を打ちすえる場面が描かれている。 ホル・アハ王は、ナルメル王の後継者とされ、メネス王が建設したとされる王都メンフィスの近郊にある墓地サッカラに最初の墓を造営した王とされる。 第1、第2王朝のファラオは、上エジプトのティス(ティニス)出身で、初期王朝は別名ティス(ティニス)王朝とも呼ばれる。しかしながら、渓谷地帯の奥から南北に長い国土を掌握することは難しいため、デルタ地帯のかなめにあたるメンフィスに新しい都を建設し城砦を築いて「白い城壁」と名づけた。 上・下エジプトの統合によって、ナイル河の一貫した灌漑統制が可能となった。王室・貴族・神官などの有力者は、多人数を動員して大規模な土木事業をおこして灌漑網を整備し、溜池灌漑法をおし進めた。政府は、ナイル河岸の各所にナイロメーター(増水計)を設置して、毎年の水位を記録した。 ナイル河の航行権は政府が握り、対外活動ももっぱら政府の独占事業となり大規模に行われた。 シナイの銅鉱山が開発され、南方ヌビアから金・象牙・黒檀などが輸入された。第2王朝のころにはシリアのゲバル(ビュブロス)に商業植民地が設けられ、スギ材やアジア各地の産物が輸入された。外海用の大型船も建造された。 まだエジプト以外に強力な統一国家がなかったころであり、エジプトは有利に取引を進めただあろう。国家経済は一段とうるおった。 しかしながら、初期王朝時代の統一国家は、全国の40余りに分かれた行政区画の州(ノモス Nomos)の統制のうえにある国家でり、古王国時代のようなファラオが強大な権力を持ち完全に統合された国家ではまだなかった。州はかつての小王国であり、貴族はかっての首長であり、州民は王朝以前のむかしから強い同朋意識で結ばれていた。州はファラオに対して貢納や有事の際の軍事義務を負うなどの、ゆるい従属関係であった。州の自治は大幅に認められており、貴族も旧領内での権限をそれほど削減されていなかった。初期王朝時代のファラオは、このあなどりがたい勢力に気を配らなければならなかった。特に、上エジプト出身のファラオにとって、歴史と伝統を異にする下エジプト諸州の統治は難事であった。たびたび討伐を行い、一方、下エジプトの神をまつり、下エジプトの王女と結婚することもあった。 初期王朝時代に、ヒエログリフ(聖刻文字)が使われ始め、民衆暦が生まれた。民衆暦は1年を365日とし、30日の月が12か月と月に属さない5日からなる。この5日間は神々の名でよばれる祭日であった。 また、「人は死後復活することができる」といった思想もすでにあり、出身地のティスに近いアビドスやメンフィスの西方に広がるサッカラ台地に日干しレンガを使た巨大な台状の墓(マスタバ墳)が造られた。これは、古王国時代の階段ピラミッドや四角錐形の巨大なピラミッドにつながっていく。
その後の時代
古王国・中王国・新王国はエジプト全体が統一されて繁栄した時代であり、中間期は内乱や政治的な混乱の時代であった。中王国時代以降が青銅器時代で、新王国時代はオリエント青銅器時代の最後をかざるものである。なお、年代については、今日でも異説が多い。