エスペラント語Ⅸ

出典: Jinkawiki


目次

概要

エスペラントは、1887年にポーランドのラザロ・ルドヴィゴ・ザメンホフによって生み出された国際補助語の一つである。エスペラントはいかなる民族や国家にも属することのない言語であり、英語・中国語・日本語などのように、その言語をネイティブで使うとされる民族や、「国語」として定める国家を、エスペラントは持たない(エスペラントのネイティブ・スピーカーは世界各地に存在する)。言葉の通じない人とのコミュニケーション手段としてエスペラントという言語が存在し、その言語を支持し使用する人々がいるというのが、エスペラントの基本的な世界観である。エスペラントという言語を広める活動は世界各地で行われており、一般にエスペラント運動と呼ばれる。


エスペラントの歴史

ザメンホフは当初、言語問題の解決策としてラテン語の復権を考えていたが、実際に学ぶとその困難さに気づいた。一方、英語では名詞の文法上の性および複雑な格変化、動詞の人称変化を省略できないか考えた。言語を学習するにはたくさんの単語を覚えなければならないが、偶然ロシア語で書かれた看板を見て、解決策を思いついた。看板には共通して接尾辞が使われており、一つ一つ別々に覚えなければならないと思われていた単語を、接辞を使って一つの単語から一連の単語群として作り出せるようにする方法を考えた。基本となる語彙は、多くの言語で使われているものを採用した。 1878年、現在のエスペラントのプロトタイプといえるLingwe uniwersalaをザメンホフはギムナジウムの同級生たちに教えた。それから6年間、まず各民族語の文学作品の翻訳と詩作に取り掛かり、新しい言語の欠陥や運用上の扱いにくさをなくすことにした。ロシア政府の検閲が許さなかったため公表が遅れたが、1887年、エスペラントの基礎について紹介されたUnua Libroが出版され、今日話されているエスペラントが世に出された。 1905年にフランスのブローニュで開催された第1回世界エスペラント大会で「エスペラントの基礎」の変更を制限する宣言が採択された。以降、世界エスペラント大会は二つの世界大戦の間を除き、毎年開催されている。 1920年代、国際連盟の作業言語にエスペラントを加えようとする動きがあったが、フランスの強い反対にあい、実現しなかった。フランスの反対の理由は、当時フランス語は英語に国際語の地位を脅かされつつあり、エスペラントを新たな脅威とみなしていたからである。


エスペラントと宮沢賢治

エスペラント語にかかわりのある日本人で有名なものの一人に、宮沢賢治(ⅰ896-1933)があげられる。賢治は19歳の時にエスペラントに出会い興味を持ち独学と講習会に出るようになった。賢治本人はエスペラントを実用レベルまでマスターすることは難しかったようだが、自作の詩や短歌をエスペラントに翻訳しようとした痕跡が残っている。「ポラーノの広場」に登場する、モリーオ、センダード、イーハトーヴなどの地名は、盛岡、仙台、岩手といった地名をエスペラント風にアレンジしたものともいわれている。筑摩書房から刊行されている「新校本 宮沢賢治全集」第6巻には賢治の「エスペラント詩稿」が収録されており、賢治独特の日本語の詩の世界を読み解く助けになる資料といえる。


参考文献

http://www.chikyukotobamura.org/muse/low_esperanto.html

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%88

https://pdmagazine.jp/background/esperanto-726/


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