オサマ・ビンラディン6

出典: Jinkawiki

 オサマ・ビン・ムハンマド・ビン・アワド・ビンラディン(1957年7月30日?-2011年5月2日?)は、サウジアラビア出身のイスラム過激派テロリスト。アルカイダの総指揮官(アミール・アーンム)であり、アメリカ同時多発テロ事件をはじめとする数々のテロ事件の首謀者とされる。  2011年5月2日(米国現地時間5月1日)、パキスタンにおいて米国海軍特殊部隊が行った軍事作戦によって銃撃戦となり、殺害されたと報道されている。


 ___出生  彼の出生に関しての情報は非常に少なく、諸説存在する。上記の生年月日は2001年9月10日に出された中東のテロ組織に関するアメリカ議会報告で断定されたものである。1998年に行われたテレビの取材において本人は、 「オサマ・ビン・ムハンマド・ビン・アワド・ビンラディンは、アッラー__いと高くあれ__のおかげで、アラビア半島リヤードのマラズ地区においてヒジュラ歴一三七七年、ムスリムの両親のもとに生まれた。」  と語っているが、真相は定かではない。


 ___父・ムハンマド  彼の父・ムハンマドは敬虔なムスリムであり、立志伝中の人物である。イエメン南東部の貧しい村に生まれながら、ヒジャーズへと移り住み、やがて建設会社を設立する。さらに当時の国王であるアブドゥルアジーズに取り入ることに成功し、二つの整地を結ぶ幹線道路の建設を請け負い成功をおさめた。これをきっかけとしビンラディン・グループは政府の公共事業をつぎつぎと受注していき、現在のサウジアラビアでは知らないものはいない中東有数の巨大事業となった。また、ビンラディン・グループの事業にはメッカのハラム・モスクやマディーナの預言者モスクという重要な宗教施設の再建・拡張事業が存在しており、彼のムスリムとしての敬虔さがうかがえる。


 ___生い立ち  オサマは、ムハンマド・ビンラディンの10番目の妻でシリア生まれのハミーダ・アッタースの子としてサウジアラビアのリヤードで生まれた。生後6ヶ月で彼はジェッダに行き、そこで小学校から大学までを過ごしたとされている。このように、幼少期から父・ムハンマドとは離れて暮らしたが、彼が父について語るときしばしばシャイフ(長老)という敬称を用いているように、彼は父のことを敬愛していたとされる。  オサマは、高校時代にはすでにイスラム組織と接触があったと述べられており、その組織はムスリム同胞団であったとされる。高校を卒業した彼は地元のアブドゥルアジーズ国王大学へ入学。さらに大学で教鞭をとっていたムスリム同胞団のアブドゥッラー・アッザームの教えを受け、師と仰ぐようになった。彼は自身に影響を与えた人物として、クトゥブとアッザームの名を挙げている。大学を出ると、彼はビンラディン・グループに加わった。


 ___経歴

 ◇ムジャーヒドとして  彼が大学を卒業する1979年、中東はイスラムの歴史を揺るがすような事態が立て続けに起こった。なかでも、彼の命運を決める大きな出来事はソ連によるアフガニスタン侵攻である。オサマのムジャーヒド(アラビア語で聖戦を戦う者の意)としての歴史は、ここから始まったとされる。彼はパキスタンへと飛び、イスラム協会のホストによってカラチからペシャワールへと向かう。彼はそこで様々な調査をし、サウジアラビアへと戻る。そして現地で戦うアラブ人義勇兵たち(ムジャーヒディーン)を支援するべく、ロビー活動を開始する。そこで聖戦への寄付として相当な金額と資材を集め、ふたたびパキスタンへと飛ぶ。この活動を彼は1984年まで続けたとされている。さらに、1984年にはペシャワールにベイトゥルアンサール(支援者たちの館の意)というゲストハウスを建設。1986年にはアフガニスタン国内にみずから建設することを決心し、二年以内に六つのキャンプを作った。これにより彼はみずからの手兵を持つことになる。また、この頃になるとオサマはムジャーヒディーンと共にソ連軍との白兵戦を行い、ソ連軍を撤退させるなど、兵士としても活躍を見せている。1988年に組織改革が行われ、この頃にオサマの施設がカイーダと呼ばれるようになる。オサマはこのおよそ九年間の期間で多くの信頼を得て、英雄視されるようになった。

 ◇アメリカとの確執  1990年、ソ連のアフガニスタン侵攻も終わりを迎え、束の間の安息の後、今度はイラクによるクェート侵攻がはじまった。これに対しアメリカの大統領(当時はジョージ・H・W・ブッシュ)は、アメリカ軍のサウジアラビア派遣を発表、翌日には同軍がサウジアラビアに展開した。メッカ、マディーナというイスラムの二大聖地を擁するサウジアラビアはムスリムにとって聖地そのものであり、そのサウジアラビアにイスラム教を主体とするアメリカ軍が駐留するということは、イスラムに対する冒涜とも取れる行為である。オサマは次のように語る。 「この地は例外的な存在である。なぜならアッラーにもっとも嘉された地だからだ。その預言者の地をどうしてアメリカ人が勝手にうろつきまわることができるのか。ムスリムたちはその信仰を失ってしまったのか。」  この頃からオサマの行動とサウジアラビア政府の政策のあいだには大きな裂け目が顕在化し始めていた。1991年から1992年にはオサマはスーダンへと移動している。これは、当時のスーダンで大きな力を持っていたハサン・トラービーという人物との接触を図ったものと思われる。彼は国民イスラム戦線という政治組織の長であり、オサマの最大の庇護者にして、理解者となった人物であるとされている。オサマはスーダン移住後、国民イスラム戦線と協力し、事業を行っていた。また、1993年にはパキスタン政府が国内の過激派一掃を行った際には、オサマは300人から480人のアラブ人ムジャーヒディーンをパキスタンからスーダンへと移送したという。

 ◇国籍剥奪  1994年、オサマは自身の兄であるバクル・ビン・ムハンマド・ビンラディンにより、ビンラディン一族から追放される。バクルはオサマがムジャーヒディーンの指導的立場にいることや、1992年に起きたホテル爆破事件に彼が関与しているとしている。この一族追放の二ヶ月後には、サウジアラビア政府により国籍を剥奪された。1996年にオサマはスーダンを離れ、アフガニスタンへと入り、同年に彼の庇護者である有力者がターリバーン側につくと発表。庇護下にあった彼もターリバーンの庇護下となった。

 ◇宣戦布告  1996年、オサマ・ビンラディンはアメリカに対する宣戦布告を発表した。さらに度重なる警告にも耳を貸さず駐留するアメリカに業を煮やしたのか、1998年には「ユダヤ人と十字軍との聖戦のための世界イスラム戦線」を結成、声明を発表。この声明には、アメリカ人殺害の宗教的見解が述べられていた。二ヶ月後には、ケニアとタンザニアにあるアメリカ大使館が同時に爆破された。アメリカはオサマ・ビンラディンを犯人だと断定し、報復としてアフガニスタンとスーダンにあるオサマの軍事施設に何十発もの巡航ミサイルを撃ち込んだ。オサマは生き延び、さらにこの事件によりオサマの名は世界的に広まった。2000年には、イエメンで給油中のアメリカ海軍の駆逐艦コールに、爆弾を積んだボートが突っ込むという事件が起こる。

 ◇9・11同時多発テロ  そして2001年9月11日、アメリカ同時多発テロが決行された。死者はおよそ3000人、負傷者は6000人以上にものぼるとされる。FBIはハイジャック実行犯とされる19人の名前と顔写真を公開。さらにアメリカのみならず、世界中で犯行にかかわったとされる容疑者が逮捕されはじめ、オサマは事件の首謀者とされた。  事件からおよそ10年もの月日に渡り逃亡し続けるも、2011年にアメリカ軍により発見、銃撃戦ののちに射殺された。


 ___主な年表

 1979年12月 ソ連軍のアフガニスタン侵攻

 1989年02月 ソ連軍撤退

 1989年11月 カイーダ結成

 1990年08月 湾岸危機、アメリカ軍のサウジアラビア駐留

 1994年04月 オサマ・ビンラディンのサウジアラビア国籍剥奪

 1996年08月 サウジアラビア駐留アメリカ軍へのジハード宣言

 1998年02月 アメリカ人殺害の宗教的見解(ファトワー)発表

 1998年08月 アメリカ大使館同時爆破テロ

 2000年10月 アメリカ艦船コール爆破テロ

 2001年09月 アメリカ同時多発テロ

 2001年10月 アフガニスタン戦争

 2003年03月 イラク戦争


 ___今後の課題  オサマ・ビンラディンの起こしたこのテロに加え、イスラム国による凄惨な過激派の行動で現在、イスラムそのものに対しての誤解が起こり差別や奇異の目を向けられることがあるという報道が多く取り上げられている。報道では、イスラムに対するあらぬ誤解だと涙を浮かべて話す人がいた。しかしその影も今では薄れつつあるように思える。薄れつつある今こそ、いつまでも続くであろうこの問題を真剣に考えなければならないように思える。


 ___参考文献

『オサマ・ビンラディンの生涯と聖戦』保坂修司/朝日新聞出版


 HN/立月(たつき)


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