オバマ大統領
出典: Jinkawiki
アメリカ合衆国第44代大統領。(2009年1月20日~)民主党。米国史上初のアフリカ系大統領となった。 本名:バラク・フセイン・オバマ・ジュニア
【オバマ大統領の歩み】 1961年 ハワイ州ホノルルで誕生。父はケニア人留学生、母は白人の米国人。 1967年 母がインドネシア人と再婚し、インドネシアに移住。 1971年 インドネシアからハワイに戻りプナホースクール(有名私立小中高一貫校)に入学 1979年 プラナホースクールを卒業。米国本土へ。ロサンゼルスのオクシデンタル・カレッジ入学。 1983年 ニューヨークのコロンビア大学を卒業。 1985年 シカゴ南部の貧民街で地域活動家に 1988年 ハーバード法科大学院に進学 1990年 権威ある法律専門雑誌「ハバード・ロー・レビュー」初の黒人編集者に 1997年 35歳でイリノイ州議会上院議員(米国史上に3人目の黒人上院議員)に初当選 2002年 シカゴでイラク戦争に反する演説 2004年7月 民主党全国大会で基調円演説。「1つのアメリカ」を訴え、脚光を浴びる 2004年11月 連邦上院議員に当選 2007年2月 大統領選へ出馬表明 2008年6月 ヒラリー・クリントン氏を破り、民主党指名候補の座を確実に 8月 民主党民主党全国大会で候補者に指名 11月 共和党のマイケン氏を破り、大統領に当選 2009年1 月 第44回大統領に就任
【オバマ大統領を知る上でのキーワード】
●多様性
これは彼の生い立ちや成育環境が大きく影響しているだろう。
黒人の父と白人の母、ケニアとカンザス州というの2つの大陸から来た二人が太平洋の真ん中ハワイで出会い、オバマ氏が誕生。バラクはアフリカ系の名前で、祝福されたと言う意味。6歳のときに母とインドネシアに移り住み、イスラム教徒の友達の中で幼少期を過ごした。その一方で、オバマ氏は、自分が米国人だと意識し始めた。10歳の時に祖父本住むハワイへ戻り、名門校に入学。バスケットボール少年だった。日系や中国系、白人、黒人、先住民が一緒に暮らす島で「アロハ・スピリット」を自然とも身に付けた。このように異なる文化に触れて育った複雑な生い立ちは、オバマ氏の呼びかける統合への努力に繋がる。
●強い心 ―したたかさ― 政治家オバマ氏を語るのによく言われている言葉「したたかさ」。これを育んだのは、当時24歳で飛び込んだシカゴ南部の国民貧困街サウスサイドだ。住民の生活改善事業に携わる非営利団体の一員として活動した。麻薬密売などの犯罪が日常茶飯事のこの地で、人々を集め、行政と話をつける日々。この中で、感情を抑え、忍耐強く交渉するスキルを身につけた。黒人としてのアイデンティティーが強くなったのもこの頃。牧師の説教に触れ、演説も徐々に上手くなっていった。 何より、一人ひとりの苦しい暮らしを目の当たりにした。それが「草の根からの」変革を目指すオバマ氏の原点だ。現実主義と理想主義の両方を兼ね備えたオバマ氏の根っこは、ここにある。
●発信力 ―巧みな演説・ネット駆使- オバマ氏が彗星のように米国国民の前に現れたのは、04年7月の民主党全国大会での基調講演だった。「リベラルな米国も、保守的な米国もない。あるのはアメリカ合衆国だ。黒人の米国も白人の米国も、ラティーノ(中南米系の)の米国もない。あるのはアメリカ合衆国ののだ」人種や主義の間の分断を自らの多様性で癒し、団結に導く。これがオバマ氏を国のトップである大統領まで押し上げた。得んぜtの巧みさに加え、クールなかっこいい風貌も説得力が増した要因だろう。 また、自他共に認める「ケータイメール中毒」である。今回の選挙でも、インターネットを駆使した資金集めの巧みさががニュースになった。直に国民と対話する場として、ブログを公開し、共同体サイトの体制を整える取り組みをしてきている。故キング牧師記念日にあたる就任式前日の1月19日を奉仕の日と位置づけ、ボランティアを呼びかけた。自身もワシントン市内のホームレス避難所の内装の手伝いなどをした。それに応じた人々から、オバマ大統領の元にはたくさんの報告メールが届いた。このようにオバマ氏に賛同する市民たちと繋がっていく仕組みである。
【就任演説】
―過去の成功体験を未来への成功へつなげよう―
約16分間の演説の中から重要な部分抜き出してみる。
・「私たちが今危機のさなかにあるというのは、いまようやくわかっている。/これらの難問は現実のものだ。深刻で数も多い。しかしアメリカよ、それは解決できる。」 ・「私たちは今日から、自らを奮い立たせ、埃を払い落として、アメリカを再生する仕事を、もう一度始めなければならない。」 ・「私たちは、責任ある形でイラクをその国民の手に委ねる仮定を開始する。」 ・「今私たちに求められているのは、新たな責任の時代だ。」
昨年9月からの経済金融危機とそれに関する社会的問題を、厳しい視点で現実的に捉えた上で、時間はかかってでも解決できるんだ、と国民に勇気を持って、試練に立ち向かうよう求めた。過去にも建国の時の苦難を乗り越えてきたように。そのために政府は、賢明に支出し、悪弊を改め、状況に応じた取り組みお行うと約束し、そうして初めて、国民と政府間における不可欠な信頼を回復することができると述べている。 国防については、「安全と理想の二者択一を拒絶する」と主張し、それまでの安全とためなら理想からの逸脱もやむを得ないというブッシュ政権を事実上批判した。 イスラム世界との関係においては、新たな和解の道を模索する。また、自分たちのできないことを西側諸国のせいにしている指導者に対しては「破壊するものではなく、何を建設するかで評価される」と厳しいメッセージを発した。さらに、独裁政権には、「握り締めたその拳を開くなら」という条件付で、手を差し伸べると言った。 最後に、将来自分たちの子供に、私たちは試練の時に再建のための努力を決して諦めず、困難に立ち向かって行ったんだと語り継げるようにしよう、と演説を締めくくった。
参考資料 朝日新聞朝刊2009年1月21日 2~3面 同、2009年1月22日 社説・8面・15面 同、1月24日 11面 [1]