オランダ独立戦争

出典: Jinkawiki

オランダ独立戦争 ( 1568 年 - 1648 年 )

関連概念 : 現スペイン 現オランダ 現ベルギー

別名80戦争。

【中世の歴史】

オランダの歴史は,ほかのベネルックス諸国と同様に,重なる外来勢力の波に翻弄される歴史であった。その意味で、外来勢力との関係・対応の仕方がこの国の歴史をみていく重要な視点となる。

【16世紀前半】

フィリップ端麗公のあと,1506年に息子のカールが低地地方を相続した。彼はやがてスペイン王となり,1519年に神聖ローマ皇帝となった。こうしてオーストリアからスペイン・新大陸の大半を包むハプスブルク帝国が出現した。この間北部(オランダ)では漁業と毛織物工業が発展し,とりわけホラント州は15世紀から「母なる貿易」と呼ばれるバルト海貿易を築きあげて,著しい経済発展を示し始めていた。そのなかでもアムステルダムは穀物貿易の一大中心地となって発展した。オランダの海外貿易は輸入品の多くを他国へ再輸出する中継貿易を基調とするものであって,この性格は現代まで続いているといえる。

【オランダの独立】

1555年、カールにかわってフェリペが低地地方を治めるようになり,翌年、彼がスペイン王になって,低地地方の政情は大きく変わった。スペインの新教に対する弾圧が強まるなかで,すでに16世紀前半に多数の信者を得ていた新教徒が反抗した。この抗争は武力抗争を激化させつつ一進一退を繰り返した。そして1568年、エグモント伯ら新教の有力諸侯が処刑されて,低地地方は恐怖に包まれた。同年、新教勢力も抵抗を強め,アルバ公がこれに相対したことで,「80年戦争」(1568~1648)とも呼ばれるオランダ独立戦争が始まった。反乱側ではオラニエ公ウィレム1世が指導者として人望を集めた。その後の政治情勢は複雑な経過をたどった。1576年に「ヘントの和約」が成立し,新旧両教の宥和と低地地方の統一が実現したかにみえた。 しかし,新たに執政となったパルマ公の手で,1579年南部貴族がカトリックの擁護と国王への服従を誓うアラス同盟を結んだのに対して,同年北部七州と南部の諸都市はスペインと戦うためにユトレヒト同盟を結成した。 そして1581年にユトレヒト同盟は、スペイン王に対する臣従拒否の宣言を行った。このころユトレヒト同盟に加わった南部の都市が次々とパルマ公によって再征服され,1585年にはアントワープも陥落した。1584年にオラニエ公も暗殺されたが,北部七州で構成する連邦議会が大きな役割を果たすようになった。ホラント州のオルデンバルネフェルトが実質上の指導者となり,オラニエ公の息子マウリッツが軍司令官(総督)となった。こうしてオランダ共和国が成立した。 マウリッツは1600年ごろまでに共和国の全土を解放し,独立は事実上達成された。1609年のスペインとの12年の休戦条約締結は,スペインのオランダ独立承認を意味した(国際法的な承認は1648年のウェストファリア条約による)。

参考文献:詳説 世界史 改訂版/山川出版社 改訂版 世界史研究/山川出版社

ハンドルネーム:bunkyo wo aisuru mono


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