オリンピックについて

出典: Jinkawiki

オリンピックについて

オリンピックの起源

オリンピックの起源をたどると、紀元前の古代ギリシャまでさかのぼる。当初、オリンピックは宗教的祭典の一部として行われていた。なぜなら、ギリシャ人の生活は宗教の中心として営まれ、スポーツも、人々が神々をたたえる方法の一つとして位置づけられていたからである。宗教的な祭祀が各地で催されたが、なかでも盛大なのが全ギリシャ競技祭と呼ばれるスポーツの祭典だった。ピュティア、ネメア、イストミア、オリンピアの4都市が会場に指定され、植民地を含むギリシャ地域全体から選手たちが集まった。当初、優勝賞品は両側に取ってのある、最上級のオリーブ油で満たされた壺が与えられた。この壺には、選手が防具を着けて競争する様子が描かれていた。もともと運動競技は戦いに備えて体を鍛える方法であり、戦争と密接な関係にあった。

女性の参加

西暦2世紀まで、女性は原則として、競技祭に参加することは許されず、さらにオリンピック競技祭では観客として見物することさえ禁じられていた。ただし、オリンピアではゼウスの妻である女神ヘラをたたえ、ヘライラと呼ばれる女性の式典が4年ごとに開かれ、唯一のスポーツ競技として短距離競争が行われていた。また、古代ギリシャ南部の国家スパルタでは、強いスパルタ兵士を産むために、若い女性もスポーツや競技に参加して体を鍛えることが奨励された。

古代オリンピック

オリンピック競技祭の開催は記録上では紀元前776年大会が最初だがその始まりはさらに何百年も前にまでさかのぼる。小さな催しが、次第に人気を集めてギリシャ最大の祭典となったのである。その後1000年以上は4年ごとに絶えることなく開かれ、たび重なる戦争や、西暦150年ごろにローマ軍がギリシャに侵入した際にも生き残った。オリンピック競技祭の重要性は年を追うごとに増し、さらにオリンピックが開かれる4年間を1周期とするオリンピアードに従って、歴史上の出来事が記録されるようになった。この時のオリンピック競技祭では勝つことがすべてで、敗れたものはすぐに忘れ去られた。オリンピアのスポーツ行事は、宗教的儀式を含む大きな祭典の一部だったため何万もの観客が競技祭を見物し、神殿を訪れた。歌手、ダンサー、奇術師、弁論家、詩人などが観客を楽しませ、聖域の外にも食べ物や花を売る人、行商人、本屋などのテントや屋台が建ち並んだ。古代オリンピックにチーム競技はなく、最初は200mほどの短距離競争が唯一の種目だった。その後ボクシングをはじめとした様々な競技が加えられていった。オリンピアでの最初のボクシング試合は、アポロが戦争の神アレスを破った一戦であるという伝説が残されている。

古代オリンピックの終わり

西暦261年以降のオリンピック優勝者の記録が残っていないため、古代オリンピックがいつ頃終わったのかは正確にはわかっていない。ただし、ギリシャがローマ帝国の一部にされたことがオリンピック衰退のきっかけとなったのは確かであろう。西暦393年、キリスト教徒だった皇帝テオドシウス1世は異教徒の施設を閉鎖するように命じ、オリンピアの遺跡は侵入者たちによって破壊された。さらに、地震や火事などの災害によって廃墟と化した残りの建造物も近くの川が氾濫して何メートルもの泥で覆われてしまった。オリンピアの建物が再び人の目に触れるまで、その後1000年を待つこととなった。西暦426年、テオドシウス2世はオリンピアのゼウス神殿をはじめとする建造物をすべて焼き払うよう命じた。オリンピック競技祭が最終的にその幕を閉じたのは、この時であったのかもしれない。

オリンピックの復活

古代オリンピックが幕を閉じてから1500年以上たった頃、もう一度オリンピックを復活させたいという夢を抱いた男がいた。1894年、フランスのピエール・ド・クーベルタン男爵はパリで開かれた国際スポーツ会議の席上で、オリンピック復活の決議を提案した。その提案が受け入れられて国際オリンピック委員会(IOC)が創設され、クーベルタンも委員の一人となった。その2年後の1896年4月、ギリシャ国王がアテネで第1回近代オリンピックの開会を宣言、オリンピック復活の夢がとうとう実現したのである。それから100年間で、オリンピックは誰もが知っているようなすばらしいスポーツの祭典へと発展した。

五輪の誕生

ピエール・ド・クーベルタンは古代ピュティア競技祭の開催地であるデルフォイを訪ねた際に、祭壇に5つの輪が絡み合った紋章がついているのを目にした。現在のオリンピック旗のデザインはこれがもととなっている。5つの輪はアフリカ、ヨーロッパ、アジア、アメリカ、オーストラリアの5大陸を象徴している。

第1回アテネオリンピック

第1回オリンピック大会は1896年4月6日から14日まで、古代オリンピア競技ゆかりの地、ギリシャの古都アテネで行われた。開会式は4月6日の午後、古代競技場をかたどったアテネ競技場で5万余の観衆を集めて始められた。ギリシャの作曲家スピロ・サマラの曲になる「オリンピック頌歌」の合唱、音楽隊の吹奏のうちギリシャ皇帝ジョージ1世をはじめとする皇族、名士が入場、各国の選手が整列するや、ギリシャ皇帝は「余はここに第1回近代オリンピックの開会を宣す」と声高らかに宣言した。宣言が終わると同時に祝砲がとどろき1000以上の鳩が青空を乱舞し、合唱隊の歌声が競技場いっぱいにわきあがった。第1回大会の参加国は13か国、選手485名で全種目に選手を送ったのはアメリカとハンガリアの2か国にすぎなかった。それも1国を代表するとはいっても、スポーツ・クラブとかの団体の代表であった。競技種目は陸上競技、重量拳、水泳、フェンシング、体操、レスリング、自転車競走、射撃、テニスおよびボートの10種目であった。

第2回パリオリンピック

第2回オリンピック大会は1900年に創始者ピエール・ド・クーベルタンの祖国フランスの首都パリで開催された。この大会の参加国は20か国、参加総人員は1066名で主催国フランスが189名を占め、アメリカは精鋭59名を送った。陸上競技23種目の大半は7月14、15、16日の3日間に終了し、マラソンだけは19日に行われた。この大会でアメリカ選手だけはみなクラウチングスタートを試みた。このスタート方法でアメリカは注目を集めることとなった。

伝統精神

オリンピックの開会式では選手代表が「我々はルールを尊重し、これに従い、真のスポーツマンシップにのっとり、スポーツの栄光とチームの名誉のためにこのオリンピック大会に参加することを、すべての選手の名において誓います」と宣誓する。これは、競技はあくまでも公正かつ友好的でなければならず、勝負よりも参加することに意義があるというオリンピックの伝統にのっとっている。そして、オリンピックの式典やシンボルも、世界の民族の相互理解を深めるというオリンピック運動の目的を反映したものである。

聖火について

オリンピックで初めて聖火が灯されたのは、1928年のアムステルダム大会だった。聖火は、スタジアムに設置された高さ50mの塔で会期中絶えず燃え続けた。オリンピックの聖火は古代オリンピック競技祭の儀式にのっとり、オリンピアの女神ヘラの祭壇で凹面鏡を使って太陽光を集め、採火される。また、オリンピック会場に向かってリレーが始まる前に、ピエール・ド・クーベルタンに敬意を表し、クーベルタンの森でもトーチから取った火が燃やされる。世界は一つであることを象徴するオリンピックの聖火は、リレーによって古代オリンピアの遺跡からオリンピック開催地まで国境を越えて運ばれる。トーチに灯した聖火を、ランナーが1キロずつ走ってリレーしていくのが基本だが、それが不可能の場合では船や飛行機が用いられる。スタジアムについた聖火はトラックを一周し、聖火台に灯されて会期中燃え続ける。

参考文献 スポーツの大祭典のすべてをビジュアルで紹介するオリンピック 成田十次郎            オリンピック史 伊東明            古代オリンピック史2 伊東明


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