オリンピック6
出典: Jinkawiki
オリンピックの公式名 日本のメディアが「五輪」と短く表記するオリンピック、これは新聞の字数を節約するために考え出された短い表記(読売新聞記者の川本信正が宮本武蔵の『五輪書」から考案したという)であるが、通常は「オリンピック競技大会」を指している。公式にはオリンピック憲章の細則に「1·オリンピアードは連続する4つの暦年からなる期間である。それは最初の年の1月1日に始まり、4年目の年の12月31日に終了する。2.オリンピアードは、1896年にアテネで開催された第1回オリンピアード競技大会から順に、連続して番号が付けられる。第29次オリンピアードは2008年1月1日に始まる。」(2014年版) と定められている。オリンピック憲章によれば、夏季大会の英語表記はthe Games of the Olympiad、冬季大会の表記はthe Olympic Winter Gamesである。つまり、2020年東京大会の表記は、第32次オリンピアードthe Games of the XXXⅡ Olympiadであり、2020年1月1日に始まり、2023年12月31日に終了することになる。このオリンピアードとは、大会と次の大会との間の4年間を1周期とする古代ギリシャの暦にならった周年単位である。近年、4年間にわたる文化プログラムが「文化オリンピアードCultural Olympiad」と称されることがあるが、これはオリンピック·パラリンピック大会開催年に終了する一般的な表記法であり、憲章の表記と混同しないことが大切である。 夏季大会は戦争などで中止されても通算の回数としてカウントされるが、冬季大会は「開催順に番号が付けられる」と憲章に規定されているように、実際に開催された大会がカウントされる。そのため、幻のオリンピックとなった1940年東京大会はthe Gam of the XI Olympiadとして数えられているが、同年に計画された札幌冬大会は数えられていない。 1909年、クーベルタンの意を受けた駐日フランス大使ジェラールが、1912年第5回ストックホルム大会への参加と日本のオリンピック委員会の設置を、東京高等師範学校校長であった嘉納治五郎(1860‐1938年)に要請した。嘉納はそれを積極的に受ける。それは彼自身が、国際的な感覚を既に備え、競争性と精神性を合わせ持つ体育・スポーツを教育者として実践していたからであった。
嘉納治五郎とオリンピック 嘉納は、オリンピックを受け入れた理由として、「国際オリンピック大会選手予選会開催趣意書」(1911年)の中で、「古代オリンピックがギリシャ民族の精神性を築いたように、世界各国民の思想感情を融和し、世界文明と平和を助くる」「勝敗を超越して、相互に交 流を深めて、相互の親善関係を深める」と述べているが、スポーツにより身体と人格が磨かれ、それが社会に良き影響を与えるということは、自身の体育・スポーツ観と共通するものであった。 1901年に嘉納が著した『青年修養訓」には、スポーツ(運動遊戯)の意義について次のように述べている。第一に筋骨を発達させ身体を強健にする、第二に、単に身体のためばかりではなく、自己及び他人に対して道徳や品位の向上に資する。第三に、運動の習慣を修学 時代以降も継続することで、心身ともに常に若々しく生きられること。今日でも十分通じる生涯スポーツ的な考えを嘉納は持っていた 一方、嘉納は中国からの留学生を1896年から受け入れ、彼らにも柔道、テニス、長距離走などの運動を奨励した。嘉納が受け入れた中国人留学生は1896年から1909年までの13年間で7,000人を超える。留学生にスポーツや柔道を取り入れて日本人と積極的に交流さ せるという、体育・スポーツによる国際教育を、オリンピックに関わる以前から嘉納は既に実践していたのであった。嘉納はオリンピック·ムーブメントを統括する団体として、日本
オリンピック委員会ではなく、大日本体育協会を設置したが、これは、嘉納がエリート選手の養成以上に、一人一人の体育・スポーツの振興を第一に考えていたからであった。さらに嘉納は、オリンピック理念と武士道(柔道)的な考えとの融合を考えていた。欧米のオリンピックを世界のオリンピックにするには、オリンピック精神と武士道精神とを渾然と一致させることである、と嘉納は述べている。武士道精神とは、「精力善用·自他共栄」(柔道や運動における精力を最も効率よくお互いに発揮することで、他者と自身の成長と繁栄につなげる) という考えだ。嘉納は、欧米のスポーツやオリンピック・ムーブメントを彼の体育·スポーツ観を通して受け入れ、さらに西洋のスポーツ文化に、身体と心を練る武士道精神を加味することを構想していた。 そんな嘉納の理念を実現させる機会が到来する。東京市が1940年のオリンピック開催地に立候補したのだ。嘉納は東京高師附属中出身、講道館門弟で国際連盟事務局次長まで務めた杉村陽太郎と学習院教頭時代の教え子副島道正をIOC委員に加えて、招致活動に乗り 出した。欧州の委員は遠い東京まで渡航するのは困難と反対が多かったが、アジアで開催してこそオリンピックは真に世界の文化になると主張し、1936年のIOC総会で1940年の東京開催が決まった 次いで1938年のカイロでのIOC総会で札幌冬季大会の開催まで決議させたが、帰路、氷川丸の船上で肺炎のため没した。その3カ月後、東京市は軍部の圧力に抗しきれずオリンピック開催を返上。同じ氷川丸に乗船して嘉納の最期を看取ったたのは、東京高師附属中出 身の外交官、平沢和重であった。奇しくも平沢は1959年のIOC総会で1964年大会の東京招致最終演説を行い、日本の学校ではオリンピックについて学んでいるので開催の準備はできていると主張し、嘉納の思いを伝えた。スポーツによる教育を重視した嘉納の思ぃは オリンピック·パラリンピック教育の中にも生かされている。
参考 JOAオリンピック小辞典
投稿者 けんけん