オーストリア
出典: Jinkawiki
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概要
オーストリア共和国(オーストリアきょうわこく、標準ドイツ語: Republik Österreich、バイエルン語: Republik Östareich)、国名(Österreich)は、ドイツ語で「東の国」という意味である。
ドイツ語の reich(ライヒ)はしばしば「帝国」と和訳されるが、フランスのドイツ語名は現在でも Frankreich(フランクライヒ)であるように、厳密には「帝国」という意味ではない。
reich には語源的に王国、または政治体制を問わず単に国、(特定の)世界、領域、(動植物の)界という意味が含まれている。
通称オーストリアは、ヨーロッパの連邦共和制国家。首都はウィーン。
ドイツの南方、中部ヨーロッパの内陸に位置し、西側はリヒテンシュタイン、スイスと、南はイタリアとスロベニア、東はハンガリーとスロバキア、北はドイツとチェコと隣接する。公用語はドイツ語で、首都はウィーン。
面積は83,870km2(112位)である。人口は2008年の総計で8,364,000人(88位)である。1955年に完全な独立を果たした。
地理・地史
オーストリアの国土の西部から中央部にかけてひろがるアルプスの山岳地帯とそこから流れ出る河川が涵養する東部のウィーン周辺の平野や、東南部のシュタイアーマルク地方の平野を
あげることができる。
アルプスの山岳地は、スイスから連続しており、東西方向にいくつもの峰の列が並んでいる。最高峰グロースグロックナー(3798m)をはじめ、万年雪をいただく標高3000mを超す峰が鋭く切り立っている。
オーストリア西部がアルプスを中心とする山岳地域であるのに対して、東部は比較的低い丘陵性の山地がひろがり、さらに国土の最東端と東南部には、オーストリアの東にひろがる平原の一部が
張り出している。アルプスから流れ出る河川は、オーストリア北部を東流するドラウ川に集約される。これらの大河が、流域に肥沃な平野を育んだのである。
オーストリア最東端のハンガリーとの国境地帯には、広大なハンガリー平原の一部がひろがっている。特にオーストリアの最大の湖であるノイジードラー湖と
その周辺は、砂質土壌に覆われて、乾燥している。これは、この地域が内陸性の気候下にあることによる。高温で乾燥する夏に対して、冬はロシア方面から
はりだす高気圧の影響でかなり冷え込む。しかし、積雪量は意外なほど少ない。ゆるやかにうねる平地はよく耕され、小麦の栽培に代表される穀倉地帯になっている。
オーストリア西部の山岳地が、大西洋からの湿った気団の影響による湿潤な気候と、トウヒやブナなどの森林によって特徴づけられるのとは対照的である。
このほか、オーストリア南東部にひろがる盆地も、夏の高温と肥沃な黒色土壌に恵まれており、小麦やトウモロコシのほか、カボチャやブドウなどの栽培が盛んである。
この豊かな農業地域を涵養するムーア川は、東流してドラウ川に注ぎ、さらにドナウ川へと流れ込む。河川と陸路を介して、早くからハンガリー南部やクロアチア、
セルビア方面との交流が進んだために、この地域には、ヨーロッパ南東部と類似の農作物や農業技術、さらには食文化がみられる。ここが、バルカンへの玄関口と呼ばれるゆえんでもある。
オーストリアの国土は、きわめて異なる特性を持つ地域からなっている。オーストリアを構成する9つの州の特徴にもはっきりとあらわれている。
オーストリアを名乗る、オーバーエスターライヒ(上オーストリア)州と二ーダーエスターライヒ(下オーストリア)州である。いずれも中世来のドイツ人の東方への進出の拠点になった地域であり、
オーストリアの歴史的な核心地域をなしてきた。地図を見ると、首都ウィーンが国土の東端にかたよって位置していることに気づく。これは、オーストリアが、歴史的にドイツ人の東ヨーロッパへの
進出の橋頭堡の役割を果たしてきたことと無関係ではない。
チロル州は、アルプス山中、州都インスブルックと現在イタリアにあるボルツァーノを中心にして発達したチロル伯爵領を起源とする。激しい山の自然に対する畏敬と愛着の感情がアルプス山岳地固有の文化を織りなし、人々の間に強い郷土意識を育んだ。
チロル州と並んで、強い郷土意識で知られる地域として、東南部のシュタイアーマルク州と南部のケルンテン州があげられる。いずれも中世にドイツ人が南東や南方方面に進出する際に、州都のグラーツやクラーゲンフルトを拠点にして起こった地域である。
オーストリア最西端に位置するフォアアールベルク州は、アルプス山岳地にありながら、隣接するチロルとは、まったく異なる性格をもつ。それは、チロルの大部分がイン川の流域つまりドナウ川の流域にあるなかで、ここがライン川の流域にあることと少なからず関係している。つまりフォアアールベルク州は、歴史的にはチロルやウィーンよりも、ライン川を隔てて隣接するスイスや南ドイツとの関係が深かったのである。
例えば、近代以降、西から伝わってきた産業革命の波は、オーストリアの国内でもウィーンを除けば、このフォアアールベルクの地域に最も早く押し寄せた。現在でも、スイスや南ドイツとの関係が強い。
ザルツブルグ州は、今やウィーンと並び称されるほどにオーストリア観光の看板として著名である。しかし、この地域がオーストリア領になったのは、意外にもさほど古くない。
ザルツブルグには、大司教座がおかれ、中世以来、ヨーロッパ中央部におけるキリスト教世界の中枢のひとつをなしていた。この地域は、大司教座の直轄領として存在してきた。
それがオーストリアに編入されたのは、1805年。ナポレオンがヨーロッパを席巻した際に、教会の財産が国家に没収されたためである。ザルツブルグとは「塩の山」を意味する。
もとは岩塩の産出地として注目された土地である。
最東端のブルゲンラント州は、国内でも特異な経緯をたどった地域である。この地域がオーストリア領になったのは、1526年。当時のハンガリー王がオスマン帝国との戦いで戦死し、その領土をハプスブルク家が継承したものであった。
しかし、1867年にハンガリーが帝国内に独自の領土を獲得すると、この地はハンガリー領に組み込まれる。そして第一次大戦後、オーストリアとハンガリーとの間に新しい国境線を画定する作業の中で、両国の利害が衝突し、住民投票の末に
1922年にようやくオーストリア領として定まった地域である。この地域の中心地だったエーデンブルク(現在のショプロン)はハンガリー領となり、ブルゲンラント州は中心地を失った形で発足した。このような歴史的経緯ゆえに、
ここにはハンガリー系をはじめクロアチア系やロマ(ジプシー)の人々も住み、多様な文化が今も継承されている。
首都ウィーンは、ハプスブルクの帝都としての長い歴史と、現在のオーストリア帝国の首都としての歴史をあわせもつ国内最大の都市である。ヨーロッパのさまざまな文化が凝集された都市である。
歴史
オーストリアの歴史の成立
自称であれ他称であれ国民国家と呼ばれる国家の多くは、自らの国家が成立すると、その国の歴史を編纂することが必要とされる。出来上がった国家の正当性を主張し、国民をつくり、統合しなければならないからである。しかし、第一次大戦の敗北によりオーストリア=ハンガリー二重帝国が崩壊し、その後継国家として「オーストリア(第一)共和国」が成立したときには、「オーストリアの歴史」なるものは、 書かれなかったしオーストリアの国民意識も成立していなかった。その国家もオーストリアという名称も、パリの講和会議によって押し付けられたものと思われていたからである。「オーストリア(第一)共和国」の国民は自らをドイツ人と意識し、むしろドイツとの「合邦」を望んでいた。それ故、1938年のナチによるオーストリアの合邦がほとんどのオーストリア人に歓迎されたのである。
原始時代からイリリア人とケルト人の故郷
身を守るのに適した地形を持つ高原地方には、旧石器時代からすでに集落が存在していた。紀元前8万年から1万年頃には、ドナウ河周辺にも人が住みはじめ、クレムス地方で発見された「踊り手」や「ヴィレンドルフのヴィーナス」は、古代文化を物語る重要な出土品です。 この地に住み始めた民族の特定は資料がないためにできないが、その後ここに定住するようになった。新石器時代には農業や牧畜も営まれ、金属製の道具も使われるようになる。1991年にはアルプスのエッツ谷氷河で石器時代の男のミイラが発見され、センセーションをまき起す。 紀元前800年から400年にかけての寒冷期には、現在のオーストリアの地にはインド・ゲルマン語族に属するイリリア人が住み、すでに塩や金属の交易を活発に行っていた。これは当時の貴重な出土品があった地名に由来しハルシュタット文化と名づけられてるが、この文化はヨーロッパ中と交易を営んでいたケルト人によって広められていった。 さらに西ヨーロッパから移り住んだ民族は、しっかりと組織化された国を築いていく。その経済的な基盤となったのは、以前からの岩塩ならびにシュタイアマルク地方から採れる良質の鉄であった。
ハルスブルク家の繁栄
ライン川上流の土豪から発展したこの家系は、たくみな政治手腕と婚姻政策によって、神聖ローマ皇帝の地位を世襲するまでになる。 カール五世の時代には、スペイン王国も手中にいれ、<日の沈まない帝国>とまでいわれた世界帝国の建設に成功した。 ハプスブルグ家の本拠地ウィーンは、ハプスブルグ家の世襲帝国の中心となり、優美な文化を華ひらかせた。 ただし、カール五世の時代にルターの宗教改革に遭遇したために、神聖ローマ帝国は宗教戦争にさらされカール五世は失意のうちに世を去りその後も、ハプスブルグ家は神聖ローマ帝国皇帝として支配を続けるが、ナポレオン戦争や民族独立運動などをつうじて、帝国は衰退し、ついには1806年に神聖ローマ帝国は消滅。以後はオーストリア・ハンガリーを中心として、中欧の大国となった。 ハプスブルク家の支配は640年にもおよんだ。1918年の第一次世界大戦の敗北で終りを告げ、オーストリアをのぞく他の領土は独立してチェコスロバキア、ハンガリー、セルボ・クロアト・スロヴェーン王国(クラアティア・スラヴォニアとボスニア・ヘルツェゴビナなどからなる)となった。またガリツィア地方はポーランドに、トランシルヴァニア地方はルーマニアに割譲された。
20世紀
第1次世界大戦
1914年6月28日、サラエボでオーストリア皇太子フランツ・フェルディナントが暗殺される。これは、第1次世界大戦勃発のひとつの引き金となった。 ヨーロッパの列強は4年間にわたり敵対し合って無意味な戦いを続けたが、戦局を決定したのはアメリカ合衆国の参戦であった。
オーストリア=ハンガリー帝国、ドイツ帝国、その同盟国トルコ側が敗北して、それまでのヨーロッパの秩序は崩壊した。こうしてオーストリア=ハンガリー二重帝国は崩壊していくつもの民族国家に分かれ、それに取り残された部分からオーストリア共和国が誕生した。
・オーストリア共和国「誰も望む者のなかった国」1918から1938年のオーストリア
最後のオーストリア皇帝カール1世が皇位放棄を宣言した翌日、暫定国民議会はドイツ・オーストリア共和国を宣言し、同時にドイツへの帰属を発表した。 しかし、新しい共和国体制を定めた講和条約(=国家条約)によりドイツへの帰属が禁止され、国名はオーストリアのみになった。 オーストリアは南チロルやズデーテン地方を失ったが、その代わりに西ハンガリー(今日のブルゲンラント州)を獲得した。生まれたばかりのオーストリア共和国は、経済的非常事態のため解決困難な問題に直面した。
当初かつての帝国領土に成立した新興国が重要な原料の輸出を拒否したため、ウィーンの 市民はほとんど飢餓状態に追い込まれた。1934年7月、ナチス党はクーデターを企ててドルフス首相を殺害したが、この企ては鎮圧され首謀者は軍事裁判にかけられる。ドルフスの後任のク ルト・シュシュニク首相は、イタリアやハンガリーとの同盟によりオーストリアの独立を維持しようと試みたが、ナチ支配下のドイツ帝国は外交政策で着々と成功を収め、オーストリアへの圧力を強めた。
シュシュニクは、1938年アドルフ・ヒトラーと個人的に会見して関係改善に努めたが、この試みは失敗に終った。
・オーストリア併合
シュシュニク内閣は、最後の手段として国民投票でオーストリアの独立を守ろうしたが、これに対しドイツ側は最後通牒および1938年3月12日のオーストリア侵攻で応えた。
むろん、当時すでにナチスを支持するオーストリア人がかなりの数にのぼっていたのも事実である。1938年3月13日、ドイツによるオーストリア「併合」が 完了し、これが同年4月10日の国民投票によって合法化さた。こうして占領されたオーストリアは、「オストマルク法」(1939年)によって国としての独立を失い、オーストリアという名も消し去られた。
その後まもなく第2次世界大戦が勃発し、兵役資格のあるオーストリア人はすべて動員された。これに先立ちニュルンベルク法がオーストリアにも適用されるようになり、オーストリアのユダヤ人を破滅の道に導いた。少数のユダヤ人だけが時期を逸せず亡命できたが、1938年3月以後は国外脱出はほとんど認められず、大部分のユダヤ人はナチスのユダヤ人絶滅政策の犠牲となった。また、ナチス政権にたいする抵抗運動に加わったオーストリア人も、多くが逮捕されて収容所に送られたり処刑されたりした。
第二次世界大戦後
1945年5月のドイツ降伏により、オーストリアはドイツから切り離され、1955年までの10年間、イギリス・アメリカ・フランス・ソ連の4カ国によって分割統治された。しかし、中央政府を喪失したドイツと異なり、ドイツからの分離によって併合前のオーストリア政府が回復したと言う立場を取り、また連合国もこれを認めたことから、国家としての統一性は保つことができた。この間を第二共和国と呼ぶ。1955年にオーストリアは冷戦の東西緩衝帯として永世中立国宣言を行い、またドイツとの合邦を永久に禁じられることを条件に、独立を回復した。この時から現在に至るオーストリア共和国となっている。
産業・経済
オーストリア経済は、自由競争を原則とする市場経済であるが、労使の経済的・社会的協力(ソーシャル・パートナーシップ)により市場の秩序が保たれている。経済問題を利益団体間の自由な話し合いにより解決していく、いわゆる社会的市場経済である。
1995年に66%の国民の支持を得てEU加盟を実現したオーストリアであるが、加盟当初は不安を抱えていたことも事実であった。他国からの労働者の流入による市場混乱や、一部産業が低賃金を求めて国外に拠点を移すことで、国内産業に空洞化が起こるのではないかとの懸念もあった。
しかし当初の懸念とは裏腹にその後の貿易の伸びはめざましく、輸出では加盟前の4年間の平均伸び率が6%であったのに対し、1995年から2000年の間のそれは、10%を超えている。輸入の伸び率も年平均9.1%となっている。
また2009年にユーロ導入10周年を迎えたが、国内ではその導入効果が高く評価された。為替レートの変動リスクがなくなったこと、国際貿易での競争が促進されたこと、企業立地としての魅力が向上したことなどである。
2009年は世界的な金融危機の影響もありGDPが前年比大幅にマイナス成長となったが、2010年に入ると特に後半になって回復基調となり、最終的には1.3%のプラス成長となる見通しで、2009年の一人当たりの国内総生産(GDP)はEU27ヵ国中第4位であり、イギリス(7位)やドイツ(8位)より上位にある。
先進国における最近の傾向をみると、サービス産業のGDP比率が高まる一方で、製造業の比率が減少しているが、オーストリアの場合、製造業の比率が2005年の17.6%から2008年には20.2%へと高まった。金融危機が影響した2009年は例外として、今後数年は製造業のGDP比率がさらに高まることが予想されている。
以前からの東西の架け橋としての役割や、限られた国内市場により経済的にもオーストリアの貿易依存度は非常に高い。2008年での輸出依存度は58.8%、輸入依存度は53.5%である。貿易収支を見ると、2006年までの過去数年は赤字幅が減少し、2007年にはついに4億2500万ユーロの黒字に転換したが、翌年からは
ふたたび赤字バランスとなっている。一方サービス貿易は毎年黒字を計上している。なかでも自然と栄光の歴史が支える観光産業は、同国最大のサービス産業であり、2007年のような例外はあるが、貿易収支の赤字基調を観光収入が支える長年の構図は当分変わりそうにない。
ベルリンの壁崩壊以前の米ソ冷戦下において、オーストリアは東西の拠点としての、特に東側への入り口(ゲートウェイ・トゥ・イースト)の役割を長年果たしてきた。
中・東欧諸国の民主化後は東西の窓口が拡大したため、ドイツ、フランス、アメリカ、イタリアなどもこれら諸国との直接取引を増大させた。その結果、オーストリアの
同諸国との関係が以前より相対的に小さくなったことも事実であるが、2004年に中・東欧諸国のうち、バルト三国、スロヴァニア、チェコ、スロヴァキア、ハンガリー、ポーランドが、さらに2007年にはブルガリア、ルーマニアがそれぞれEUに加盟したことで、この地域とオーストリアとの経済関係はより一層強まっている。
その後、EU東方拡大の流れを受けて近隣のEU加盟候補諸国との「地域的パートナーシップ」構想を打ち出すなど、中・東欧諸国との関係のさらなる強化を目指している。
2010年になると、経済危機を乗り越えつつあるオーストリアの貿易量は、再び上昇に転じている。2010年1月から8月までの累計をみると、輸出と輸入額が前年比それぞれ15.3%、14.0%のプラスに転じている。
日本との貿易関係を見てみると、まず2009年度日本からオーストリアへの輸出は、乗用車(46.6%)が圧倒的に多く、次いで一般機械(17.6%)、電気機器(10.0%)、化学製品(7.1%)となっている。オーストリアから日本への輸入は機械類およびう輸送用機器(32.5%)、化学製品(17.1%)、木製品[家具除く](8.6%)、家具(6.6%)、木材(5.5%)となっている。
日本が輸入していて意外と知られていないのが、「鉄道用保線車」である。日本の新幹線は、1964年の運転開始以来、技術的欠陥による人身事故を一度も引き起こさずに走り続けている。その軌道や架線を監視する保線車のほとんどがオーストリア製である。JRのみなず、日本の多くの私鉄にもこの保線車が納入されている。
食品関係では、「リンゴジュース」が日本向けに長年コンスタントに輸出されている。また日本では十分に知られていないが、オーストリア国内のワインの生産量は年々増加している。ウィーンから1時間足らずのノイジードラー・ゼー地域は貴腐ワインとアイスワインでは、世界三大生産地の一つとして有名である。
交通
オーストリアのアルプス山岳地は、人やものが自由に行き来してきた空間でもある。孤立しているかにも見える谷と谷は、峰の鞍部を超える峠で結ばれ、行商、牧畜などの山地利用、出稼ぎなどアルプス内部での人々の交流は、意外なほど活発になされてきた。
交通網は、アルプス地域を外部の世界とも結んだ。なかでもオーストリア・チロル地方とその南方の北イタリアを結ぶブレンナー峠(1370m)は、アルプスの南と北を結ぶための最も低い峠越えのルートであり、オーストリア国内ばかりではなくヨーロッパの重要な
交通路として位置づけられてきた。
この峠を越えて、南や北から人や物が行き交ってきた。現在でも、イタリアと北西ヨーロッパとを結ぶ高速道路や国際列車などが通過する重要な要路になっている。一方、山脈と並行して東西に走る縦谷は、東西の交通路として利用された。
つまり、アルプスは、その南の地中海世界と北のゲルマン世界、西のフランス・大西洋沿岸地域と東の東ヨーロッパ・ロシア平原とを結ぶルートが交差する場所でもあった。
オーストリアと接する国々との国境も、オーストリアの国土を外の地域と結び付ける役割を果たしてきた。オーストリアの国境線は、南部のアルプス山岳地の一部を除けば河川の流路と一致し、あるいは平地を横切っている。ザルツブルクを流れるザルツァハ川は、ドイツとの国境でありオーストリア最西端では
ライン川がスイスとの国境になっている。いずれも水路として利用され、両岸の地域を結び付ける役割を果たしてきた。
国土が隣接国に向かって解放されているということは、交通網に良く表れている。オーストリアの鉄道や高速道路は、隣接諸国と結ばれている。それどころか、ウィーンとチロル地方のインスブルックを結ぶ鉄道や高速道路のように、いったん南ドイツを経由するものもある。
このほか、ハンガリーやイタリアとの国境をまたぐルートもある。
文化
言語
オーストリアの国語はドイツ語であるが、オーストリアのドイツ語はどんなドイツ語なのか。ドイツ語の方言区分を見てみると、ドイツ語は一般に大きく
北部の低地ドイツ語、中部ドイツ語、そして南部の上部ドイツ語に分けられる。中部ドイツ語と上部ドイツ語をあわせて高地ドイツ語と呼ぶこともある。この2ないしは3区分の基準となるのは、第2次音韻推移と呼ばれる現象である。
これは、一言でいえば、特定の音が別な音に変化する現象で、5、6世紀頃、ドイツ南部からはじまり、その力を次第に弱めながら北上し、8世紀には終了したと考えられている。この南から北にかけて生じた音韻的変化の影響をどの程度受けたかにより、
ドイツ語の大区分がなされている。現代ドイツ語で、標準ドイツ語に近いのはドイツ北部の日常語で、ミュンヘンなど南部のドイツ語は方言色豊かだと言われている。
このドイツ語圏南部の方言は、さらにドイツ南西部からスイスにかけて話されているアレマン方言とバイエルン・オーストリア方言に区分される。オーストリアの西部、フォアアールベルク州はアレマン方言に区分されるが、残りの地域はバイエルン・オーストリア方言ということになる。
しかし、ドイツ語だけがオーストリアの言語ではない。オーストリアにはドイツ語以外の言語を母語とする人々が生活している。ケルンテン州とシュタインアーマルク州には、スロヴェニア語集団が、ブルゲンラント州にはクロアチア語集団、ハンガリー語集団、ロマニー語集団が、ウィーンには
チェコ語集団やスロヴァキア語集団がいる。割合で言うと、オーストリア国民のうち、ほぼ98%はドイツ語を使用しているが、1%はドイツ語以外の言語を使用する民族集団である。
オーストリアだけでなくヨーロッパでは多くの民族集団がいる。民族集団を生みだした要因の一つは、戦争後の国境線画定である。
教育
オーストリアの教育制度は、国のその他の制度のほとんどがそうであるように、女帝マリア・テレジアの時代に整備されたものが骨格をなしている。したがってオーストリアの学制は、約300年の歴史を有することになる。具体的には学校教育、見習生訓練教育、大学教育、成人教育(生涯教育、職業の継続教育および再教育など)から構成される。 オーストリアの義務教育は6歳から始まる。日本と同様9年間であるが、制度は日本とだいぶ違っている。最も大きな違いは、4年間の初等教育を終えると、本課程学校(ハウプトシューレ)か一般教育中・高等学校(ギムナジウム)を選択できる点である。つまり職業に就く人と大学に進学する人のそれぞれの進路は、齢10歳にして早くも異なっている。 通常、就職を希望するものは、日本の小学校に相当する基礎学校(グルントシューレ)または、国民学校(フォルクスシューレ)の4年間を終えると本課程学校で4年間学ぶことになる。この場合、9年の義務教育に満たないので卒業後さらに1年間の補完授業を各種の教育施設で受けた上で、希望する職業の見習生訓練教育(レアリング)を受ける。 他方、進学する子どもは、4年間の小学校の成績を教師が評定してギムナジウムに推薦する。したがって、入学試験に当たるものはないが、一部の私立の学校に進学を希望する者には、入学試験が課せられることになる。高等学校を正規に修了するためにはマトゥーラ(MATURA)と呼ばれる卒業試験を受ける必要がある。この試験に合格すると大学(国立)入学許可が与えられる。 つまり、高校卒業試験がそのまま大学入学試験となっているのである。現在オーストリアでは、毎年2万人強が大学に入学する。2006年度は標準的な高校卒業年齢にあたる国民の約42%が大学に進学した。上記のような職業訓練制度の伝統もあって大学進学率は比較的低く、EU平均の55%を下回っているものの、進学者数は毎年増加の一途をたどっている。 最近では、高等教育機関における男女比は逆転し、女性のほうが多くなった。またオーストリアでは、高校を卒業して数年経ってから、大学に進学するケースが多い。これは、大学入学資格さえ取得すれば、何年か社会に出て働き、あるいは兵役を終えた後、さらには定年退職した後、本人に意志さえあれば、いつでも勉強できるからである。国公立の学校は 原則無料である。大学は通常5年で卒業となるが、この修学年数で無事卒業できる学生は、入学時の22%程度である。卒業の際には指導教授の元で論文を書き、口述試験に合格しなければならない。オーストリアでは卒業と同時に、修士(マギスター)の学位を得る。大学院は修士課程はなく、いきなり博士課程から始まっている。しかし欧州内の大学の標準化と国際化を目的とした 「ボローニャ宣言」(1999年)に基づいて、欧州各国で大学制度の改革(ボローニャ・プロセス)が始まったのにあわせ、オーストリアでも2000年度より、バチュラー(学士)制度が導入された。これにより学士・修士・博士の3段階の教育が可能になったが、保守的で伝統を重んじる国民性からなのか、採用する大学は半数程度にとどまっている。
参考文献
ウィーン・オーストリアを知るための57章【第2版】2011年4月25日 発行 明石書店 編著者 広瀬佳一、今井顕
図説オーストリアの歴史 2011年 発行 河出書房新社 著者 増谷英樹・吉田善文
オーストリアの休暇いま始まる!ゆとりの旅 http://www.austria.info/jp
オーストリアの歴史 ウィキペディア http://ja.wikipedia.org/wiki
S・A