キプロス紛争
出典: Jinkawiki
1974年7月にキプロス国内で発生したギリシャ軍事政権主導によるクーデターによって浮き彫りになった、キプロス国内の民族的多数派であるギリシャ人と少数派であるトルコ人の紛争である。クーデター自体はトルコ人保護名目のもと、トルコが介入したことにより終結。キプロスの新政権とギリシャの軍事政権は責任を追及され崩壊した。しかし、キプロス国内の紛争は終結したわけではなく、国連が定めたグリーンラインを境に北キプロス・トルコ共和国とキプロス共和国に分断されたままである。この事例は民族間の紛争でもあるが、イギリス、トルコ、ギリシャ、アメリカによって行われた代理戦争の典型的な例でもある。
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紛争の発端
キプロスは、その地理的位置から古来より、争奪の対象になっていた。1571年にはヴェネチア共和国領からオスマン帝国領となった。オスマン帝国が衰退してくると、今度はイギリスがイスタンブール協定によって地中海に進出。オスマン帝国領であるキプロス島の租借を実現した。イギリスの行った分割統治により、それまで曖昧だったトルコ人・ギリシャ人の民族関係は表出化した。その後、イギリスはキプロス島を併合し、1925年には直轄植民地とした。
クーデター発生
キプロス初代大統領マカリオス3世は、1963年に発生したギリシャ人民兵組織とトルコ人民兵組織の衝突や1967年にギリシャで発生した軍事クーデターにより、ギリシャとの統一路線から離れようとしていた。それを許せなかったギリシャは、国内にいたギリシャ人民兵組織のリーダーをキプロスに帰し、クーデターの気運を高めたさせた。そして1974年7月14日、民間人に扮してキプロスに入り込んだギリシャ軍将校、キプロス国内に駐留していたギリシャ軍と民兵組織によりクーデターが行われた。
クーデター終了
トルコや国連平和維持軍の介入を警戒し、トルコ人居住区は攻撃しないようにしながら、クーデターは成功したかに見えた。しかし、マカリオス3世の暗殺失敗やクーデターの拡大を警戒したトルコ人の武装化により、トルコ内部での軍事介入の声があげられるようになった。トルコ政府は、ギリシャの背後にはアメリカが存在することから政治による解決は難しく、民衆の賛同を受けることから7月20日軍事介入を決行。22日にトルコ側が国連決議により停戦するまで、トルコの圧倒的優勢で戦況は進んでいた。この間、トルコ人民兵によりギリシャ人に対する攻撃もあったことから、戦火を恐れた多くのギリシャ人は南部に移り住んだ。こうして北部のトルコ系と南部のギリシャ系の分断が進行してしまった。
クーデター後
その後ジュネーブで行われた和平交渉は難航し、トルコは2回目の軍事介入を決行。北部のほぼ全土を制圧した。トルコの実効支配が可能になった北部のトルコ人地域は、1975年に一方的にキプロス連邦トルコ人共和国を樹立。1983年には北キプロス・トルコ人共和国として独立を宣言した。
月村太郎 2013 民族紛争 岩波書店