キューバ危機4
出典: Jinkawiki
米ソ核戦争の危機、人類滅亡の瀬戸際
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概要
1962年10月14日、アメリカのU2型偵察機がキューバ西部のクリストバル地区に建設中のソ連のミサイル基地を発見した。一方、ソ連はキューバに接近しつつあった。
背景
1959年初め、キューバでは親米のバティスタ政権が崩壊し、カストロ政権が成立した。土地改革やアメリカ系企業の国有化を進める一方で、ソ連との関係強化を図ったため、アメリカ・キューバ関係は悪化の一途をたどり、61年1月に関係が断絶した。 ニューフロンティアを掲げて、国交断絶後まもなく大統領に就任した若きケネディは、内外政策に意欲的に取り組んだ。懸案のキューバ問題も、アメリカに亡命したキューバ人を利用したキューバ侵攻作戦は失敗に終わった。カストロは、アメリカの行動を厳しく批判し、社会主義宣言を行ってソ連との関係を一層強化した。ケネディは就任直後に、外交で大きな失点を取られたことになる。
内容
U2型機の発見後、ケネディ政権は取るべき手段を検討してきたが、10月22日、大統領はテレビ演説であることを公表し、撤去の要求と、アメリカ艦艇によるキューバの海上封鎖を宣言した。アメリカの断固たる態度や国連安保理での交渉、アメリカのキューバ不侵攻の約束など非公式の折衝を通じて、10月28日、フルシチョフはミサイル撤去を声明し、米ソ核戦争の危機あ一応回避された。
その後の動き
一時的にせよ、全人類の生命を背負たケネディとフルシチョフは急速に接近し、両国間に緊張緩和の空気が生まれた。63年7月にホット=ライン(米ソ首脳の直通電話)の開設が決定、8月には米ソ英三国が部分的核実験停止条約を締結した。しかしこの米ソ間の緊張緩和は、両国首脳の突然の退場で終焉を迎えた。63年11月にケネディはダラスで暗殺され、そのほぼ一年後にフルシチョフは政権を追われた。 *部分的核実験禁止条約* この条約は、地下以外の大気圏内外の空中及び水中での核実験を禁止。当時の技術水準からすれば地下核実験は非常に難しく、空中・水中での実験禁止は核開発の断念ないし、遅れを意味した。1960年にサハラ砂漠で実験に成功したばかりのフランスと、中国が条約に参加しなかったのはそのため。
参考文献
「図説世界史」関眞興(編著) 実業之日本社発行
「13日間ーキューバ危機回顧録」 ロバート・ケネディ(著) 中公文庫BIBLIO20世紀 文庫