キリスト教の浸透
出典: Jinkawiki
キリスト教の一派イエスズ会の創始者の1人、フランシスコ・ザビエルは、インドのマラッカでアンジローという日本人に出会い、その聡明さに心打たれ、日本への布教を決意する。
1549年、ザビエルは鹿児島に上陸、山口・堺・京都と布教の旅を続け、2年3か月の滞在ののち離日した。彼に感化されて入信した者の数は1000人にも満たなかったが、以後、続々と外国人宣教師が来日、教徒は急増していく。とくに九州では、キリスト教徒になる大名(キリシタン大名)も現れる。彼らの多くは、南蛮貿易の利益を目当てに入信した。なぜなら南蛮船は、布教を公認する大名の領地にしか入港しなかったからだ。
信長の時代、キリスト教は最盛期を迎えた。信長が仏教勢力を抑制する目的でキリスト教を公認したからだ。京都や安土には教会がいくつもつくられた。
だが、1587年、九州を平定した豊臣秀吉は、突如バテレン(宣教師)追放令を発する。その理由としては、教徒の団結を恐れた、長崎が教会に寄付されていたのに激怒した、宣教師が日本人を奴隷として海外へ売ったのを知った、など諸説あるが、南蛮貿易は奨励されたので追放令は不徹底に終わった。
徳川家康もはじめのうちは貿易の利を重視し、キリスト教を黙認してきたが、1612年、直轄地に禁教令を出し、翌年には適用範囲を広げ、高山右近ら多くの信徒を国外追放した。にわかに態度を変じたのは、新たに来日したオランダとイギリスのせいだ。両国の宗教は、プロテスタントであり、貿易に関して布教を必要条件とせず、むしろ彼ら自身が幕府との貿易を独占するために「カトリック系宣教師の目的は日本侵略にある」と吹き込んだのである。
1637年、島原でキリシタン天草四郎を首領とする農民3万8000人が反乱を起こした。この鎮圧に苦慮した幕府は、これを機にキリスト教徒の根絶を目指して、踏絵や拷問によって信者に厳しく改宗を迫った。また、賞金を出して隠れキリシタンを密告させたり、連帯責任制度を設けて相互監視させたりした。
このような諸政策によって信徒は根絶したかに見えたが、1865年、長崎に大浦天主堂が建設された際、浦上村の人々は宣教師プティジャンに自分たちがキリスト教徒であることを告白したのである。プティジャンはこれを「キリシタンの復活」と讃えたが、約300年間の厳しい弾圧と詮索に耐えて、父祖の信仰を守り抜いたというのは、まさに奇跡的な出来事といってよいだろう。だが、その後もキリスト教の弾圧は行われた。そして1873年、ついに明治政府がキリスト教禁制の高札を撤去した。
現在、日本人の約1パーセントがキリスト教徒である。20世紀後半以降の日本はクリスマスやバレンタインデーのように年中行事として、或いはキリスト教会での結婚式の選択やキリスト教系ミッションスク-ル人気などの形で純粋な信仰とは別にキリスト教の文化・行事が国民の間に浸透しつつある。
参考文献・URL
・日本史B用語集(山川出版社)
・早わかり日本史(日本実業出版社)