キリスト教6
出典: Jinkawiki
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キリスト教の歴史
死者が復活してから四〇日目に、キリストは昇天する。「使徒言行録」によると、ペンテコステの一〇日前のキリストの昇天は、弟子たちを孤独にし混乱させた。この出来事の後、使徒たちは勇気を得て宣教活動をはじめ、復活して昇天した主の最後の命令「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼をあずけなさい」を実行する。彼らは出て行くとイエスがメシアであったこと、イエスが神の子であったこと、彼が十字架にかけられた後に死者から復活したこと、彼の名で罪が赦され永遠の救いがすべての人に与えられることなどを説いた。大使徒の一人ペテロが、その生涯と宣教の後半に帝国の首都ローマに行き、その地で信仰を説き教会を作ったと説明する。ユダヤ教からの改宗者パウロも異邦人世界を巡った後ローマに達する。これは、キリスト教迫害の三〇〇年の歴史の始まりであった。キリスト教は非合法と宣言され、多くのキリスト教徒が信仰に殉じる。長い期間にわたる拒絶と迫害の後、キリスト教は少しずつ受け入られ始める。最初のキリスト教徒のローマ帝王と言われているコンスタンティーヌスまでには、教会とローマ帝国の衝突は少なくなり始めていた。キリスト教は三八〇年ごろには帝国の公認宗教になった。ローマの陥没後、教会は地方の諸侯の支配する封建的な小さな諸教会に分裂するところだった。しかし、それを阻止し諸教会を一つにしたのはローマの教皇制である。この力は特に「大教皇」の称号を持つグレゴリウス一世の下で強力であった。グレゴリウスは教皇になった最初の修道士である。彼はカンタベリーのアウグスティーヌスを小さな宣教団の長としてイングランドに派遣し、アングロ・サクソンのキリスト教化につとめた。グレゴリウスの同時代人の多くもキリスト教をヨーロッパの他の地域に伝えた。一〇世紀後半キリスト教はデンマークやスウェーデン、ノルウェーなどに急速に浸透していく。一一世紀には聖ウーラフがノルウェーを完全にキリスト教化する。キリスト教は彼が死ぬ前にグリーンランドのスカンジナビア半島の前哨地やアイスランドを経てロシアの西部まで広がっていた。一八世紀や一九世紀のヨーロッパにおいては、多くの反キリスト教的勢力が盛んになったが、それにもかかわらずキリスト教はヨーロッパから多くの国々へ広まった。一九世紀以前それは主にスペインやポルトガルの偉大な力によったが、その結果カトリシズムがラテン・アメリカにカナダの東部、アメリカの南西部のルイジアナ領に伝えられた。一九世紀になるとイングランドが大きな勢力となりアングリカニズムや多種多様のプロテスタンティズムがカナダやアメリカ、オーストラリア、ニュージーランドに伝えられた。アイルランドやイタリア、南ドイツ、ポーランド、ポルトガル、スペインなどからの移民の波でカトリシズムも再びアメリカで大きな影響をもちはじめた。その多様な形態におけるキリスト教の生命力は一九世紀においても歴然としたものだった。
現在のキリスト教世界
イエス・キリストはモーセの律法を霊的なものにし、「新しい法」をユダヤ民族を越える世界に広げた。イエス・キリストの弟子の一人パウロがパレスチナの外の地中海世界の都市や町に伝えたいのは、この霊的な律法である。それは小アジアのガラテヤやコロサイ、エフェソにマケドニアのコリントやテサロニケ、フィリピにさらにはローマにまで伝えられた。世界のおよそ五〇億の総人口のうちでその三三パーセントに相当する一五億以上の者がキリスト教徒である。しかし、極東のキリスト教徒の数は一番少ない。近年、アメリカのプロテスタント系の多くの教会がカリフォルニアやフィリッピン、韓国などに神学校を創設したがその目的は福音をアジアの人々に広めることにある。二千年を経た現在でもイエス・キリストの命令「すべての国民に述べ伝えよ」は生きているのである。教会の活動はすべて全世界でまた奉仕の多くの分野でキリスト教が力強く存在していることを示している。キリスト教徒は正義のために戦い、病人を癒し、貧しい者に衣服や食べ物を与え、刑務所に受刑者を訪ねたりしている。これらの活動は、伝統的にキリスト教徒の慈善の働きである。キリスト教徒にとって今日の世界においてキリスト教の実りを証しするこれらすべての目に見える活動は、神と隣人への愛から営まれるときにはじめて意味を持つ。それらは神の創造の栄光をたたえる讃歌の行為、神の恩恵を感謝する行為などによるものである。とはいえ、彼らの生活の中心はこうした活動にあるというよりはこれらの献身を動機づける祈りと礼拝である。この生活は、ギリシア正教の典礼を中心とした生活やベネディクト会士の単純な旋律の典礼歌、モルモン・タバーナクル・クワイヤーの合唱、ペンテコステ派の声を震わせての「アーメン」の唱和、クエーカー教徒の沈黙の礼拝などの中に示されている。
ユダヤ教との抗争
イェルサレム陥落後役一世紀の間、ユダヤ教とキリスト教はお互い「偽善者」「異端」「無神論者」と罵り合って激しく争った。ユダヤ教側の戦略はキリスト教徒を国家に危険なものと非難すること、たえずキリスト教徒の日常生活を妨害することに向けられた。パレスチナにおける両者の反目は厳しく、ユダヤ教徒は「キリスト教徒に助けられるよりむしろ死んだほうがましだ」といってキリスト教徒の治療を拒否するほどであった。この両者の争いは、パレスチナ本土においては新しいイスラエルは古いイスラエルを、ついに圧倒するに至らなかった。カぺナウム、ティベリアス、イェルサレムでは若干キリスト教は食い込むことができたが、パレスチナ全体としてはユダヤ教の優位はゆるがなかった。しかし、キリスト教はパレスチナでの劣勢を異邦の地に行われた伝道によって償った。一世紀末から二世紀初めにかけて異邦の地に展開されたキリスト教の伝道は、ディアスポラおよび異邦人で「神を敬うもの」「信心深いもの」とよばれていたユダヤ教への接近者を急速にユダヤ教から奪って多数吸収してしまった。更にキリスト教はこれまでユダヤ教に接したことのない生まれながらの異教徒にも手を伸ばし、これらの人々にまでも仲間に引き入れた。このようなキリスト教の地中海世界における勢いに乗った伸展は東方で特に著しかった。このような教会の前進はユダヤ教との敵対関係をますます激しいものとした。ユダヤ教は七〇年にうけた壊滅的打撃によって、息の根をとめられ、伝道活動を展開する気力など全く喪失した惨めな状態に陥ったのではなく、かえってイェルサレム陥落、神殿焼失後の半世紀はユダヤ教がヘレニズム世界で異教、キリスト教双方を敵に廻して勝利を目指した戦に勢力を傾注したじきであった。ユダヤ教は異教世界からの改宗者を一人でも多く、一刻も早く獲得しようと懸命の努力を集中した。それはキリスト教も同じで、両者が激しく争うのは当然であった。いま相争う二つの陣営の力を比べてみるとそのメンバーの財力と社会的地位、宣伝力と有力者の保護においてユダヤ教の方が圧倒的に優れていた。また帝国に対する敵意において、その黙示録的熱誠においてユダヤ教はキリスト教にいささかのおくれもとらなかった。ユダヤ教側は有能な闘士を選び、これらをイェルサレムから全地に送り出し、キリスト教を「神を忘れた新しい異端分派」と宣伝させ、キリスト教徒への中傷を悪しざまに言いふらし、旧約の権威を盾にして、各地でキリスト教徒をやり込めた。ユダヤ教のキリスト教論難の焦点は、イエスへの激しい攻撃に集中された。キリスト教側はユダヤ教からの攻撃に対して受身であり、その反撃は柔和で消極的であったことは否めない。両者の激しい争いの末、必ずしも有利な条件に恵まれていたとは考えられないキリスト教が次第に勝利を収めていった。
イエスは実在したのか
イエスが埋葬されたという墓のあとは、ヨルダン領のエルサレムにある。ヨルダン領のエルサレムの市街には古い巨大な城壁に囲まれている。市街の家々は大部分が白っぽい石造りの窓の小さい暗い建物でその間を狭い石畳の道が迷路のように走っている。石畳の道を荷物いっぱい積んだロバが鈴を鳴らしながら通り裸足のアラブ人の子供が走り抜ける。巡礼や観光客めあての土産物店と並んで店先に赤や黄色の香辛料をざるに山と積んだ食料品の店が目につく。イエス時代のエルサレムの街もそう違ってはいなかったのではないか。イエスの墓の上に立つ聖墳墓教会はこの迷路のような街のちょうど真ん中のあたりにある。古代ユダヤ人の墓は石を四角に掘って、作った石室に遺体を置くという形式のものであった。しかし、イエスの遺体が納められたのはこういう大規模な墓所ではなかった。イエスの墓はアリマタヤに住む金持ちの墓だった。当時、キリスト紀元にして逆算すると紀元三〇年か三二年の四月、金曜日のお昼頃。エルサレムの北側に今はありませんが高い灰色の城壁がつらなっていた。エルサレムはそのころ二重の城壁で市街を守っていた。その第二の城壁の城門から一団のローマ軍の兵士たちが三人の死刑囚を守ってつまさき上がりの道をゴルゴダに上がってくる。三人の囚人はそのころの習慣に従ってそれぞれ十字架を背中に担いでいた。四月の末のエルサレムはもう乾期で雨はほとんど降ることがない。来る日も来る日も青い空にまぶしい太陽が照り続ける。なお十字架の重さは少なくとも七十キログラムはあったと推定されていてやせおとろえた囚人たちにとって決して楽な質量ではない。やがて一団の人々は岩山の上に到着しそこに三つの十字架が立つ。打ち首や絞首刑のほうがひと思いに殺してしまうだけにまだしも楽な方法であるといえる。十字架だとなかには三日間も死ななかった例があるという。その間不幸な男たちは緩慢な死が襲ってくるのを燃えるような苦痛に耐えて待たなければならないのだ。イエスは十字架にかけられる直前没薬を混ぜた葡萄酒を勧められ拒絶した。死者の苦しみを和らげるために強いお酒を勧めるのはユダヤでは古い習慣であった。とにかく彼は葡萄酒を拒絶し、手足に釘を打たれ、午後の三時ごろ絶命した。やがて日が暮れてから一人の男が城門から出てこの丘にきた。彼は真ん中の十字架から遺体を降ろし、亜麻布に包んでそれを近くの岩穴に運ばせた。
日常生活のキリスト教の影響
キリスト教は今日まで世界中の人々の生活のあらゆる面に影響を与えてきた。近年キリストの影響、いや宗教一般の影響は小さなものになり、そのため現代は世俗の時代・非宗教的時代であると考える者もいる。とはいえ今日でも私たちはキリスト教の影響の中にある。アメリカやその他の国々における、日常生活のキリスト教の影響について紹介する。キリスト教がギリシアの人の共同体に広まるにしたがいキリスト教徒と他の者たちとの区別がつかなくなる。彼らをキリスト教徒にたらしめた一つの特色はその愛の哲学である。キリスト教の愛とは日曜日には実践されるが、週日には忘れられてしまうような愛ではない。キリスト教は憐みの働き-飢える者に食べ物を与え、裸の者に着る者を与え病んでいる者や監獄にいる者を見舞い、よそ者を歓迎し、死者を埋葬する-を実践して愛を示す。今日のアメリカにおいて、キリスト教徒がその信仰を実践するのは個人的にであったり、家族とともにであったり、日曜日の教会であったりする。灰の聖水曜日や聖木曜日、聖大金曜日には特別な礼拝がもたれたりする。イースターやクリスマスのような重要な祝祭日にも礼拝がもたれる。しかし、キリスト教徒の大半は他の市民と同じ日常生活を送っている。キリスト教の若干の教派はその派の信条のために隣人とは全く異なる仕方で生活している。メノナイトの一派であるアーミッシュは世界からの隔絶を教える。農業に従事して質素に暮らすのが彼らの流儀の生き方である。電気や電話などの文明の利器は使用しない。馬を使って土地を耕し、乗り物といえば馬車である。アーミッシュの人々の服装は華美からはほど遠く、どこまでも地味である。しかし、ほかのキリスト教徒は時代の流行に合わせた服装をしたりして信仰を服装には反映させていない。
参考文献
「キリスト教」著者:スティーブン・F・ブラウン 「キリスト教の成立」著者:半田元夫 「教養としてのキリスト教」著者:村松剛
hami