グルントヴィの生きた言葉

出典: Jinkawiki

目次

歴史的である「生きた言葉」

グルントヴィによれば、「生きた言葉」とは、日常語で生の具体的な面を記述するための新しい言葉を各個人が見出すことであるという。その生きた言葉が、個人の啓蒙と国家の啓蒙の連続的相互作用を可能にすると考えたのである。「個人が結びつけられている現在の生との連続性からの、歴史の非分離性に基づいている人格的な形」となって生きることができないならば、歴史は死んだものと同じだと述べている。そして、個人の生の具体的な面を記述する言葉こそが生きた言葉であり、個人の生きた言葉に込められた共有される感情を、グルントヴィは「詩」と表現している。生の啓蒙を歴史的・詩的とグルントヴィが称した理由がここにあり、グルントヴィの啓蒙思想の真髄がここにあると考えられる。

詩的である「生きた言葉」

歴史のすべての時代を通じて、人間の存在の本質を示すと同時に本質を構成してきたのは、人間が実際に話す言葉であった。この話される言葉を抜きにして、生活はあり得なかったとグルントヴィは主張している。インスピレーションとも言うべき生きる意味を見いだす自己覚醒こそがグルントヴィ的な啓蒙である。詩は、創造という精神的な関係や真理との関係で語られ、その精神を吹き込まれた詩人の発話として表出されることで人々の感情に刻み込まれていく。それらの詩は活字で表記されるような狭義の詩ではなく、人々の想像力 を通して、生活の中で語られる生きた言葉によるものでなければならないとした。

生活語としての「生きた言葉」

ヨーロッパにおいては、古代より教会や学問的な領域での使用言語はラテン語であった。デンマーク語はデンマーク国内においてでさえ野蛮で無知な言葉とされ、教会や学術的な場ではラテン語、上流階級の公的な場においてはフランス語やドイツ語が使用されていた。デンマーク語が無知な農民の言葉であり、有力者はラテン語学校へ行き、やがてデンマークの高官となって権力を持つ。人口の多数派を占める農民が、国民としての権利を持てないという矛盾した状況に対する憤りを抱いていたグルントヴィは、ラテン語重視の学問に対して、「民属・民衆から引き離され」、「死の状態であり」、「人間の生に対して敵対的である」と主張した。

参考文献

児玉珠美著 (2016) 『デンマークの教育を支える「声の文化」』新評論

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