グローバリゼーションと教育
出典: Jinkawiki
グローバリゼーションと教育
グローバリゼーションの実態
一般にグローバリゼーションは、商品のオンライン・トレード、多国籍企業の商品の流通、インターネットの情報網(WWW)、有能な人材の国外流出などに見られる市場・情報の世界化、すなわち世界的な規模で商品・人材が流通し情報・知識が活用されていくことである、と考えられている。 換言すれば、グローバリゼーションは、より速やかに、より大きな利便性を求める経済・文化の機能的ネットワークが、ローカルな現場、地域社会、主権国家、さらには国家連合といった空間的枠組みを超え、世界に拡大していくことである。これは、空間的に大きく隔てられている場所がメディアや輸送手段によって結びつき、経済活動・文化活動の自由が拡大し、利潤・便益を得る機会が増大することであるが、同時に仕事の脱熟練化(マニュアル化)が拡大し、人間の脱文脈化(浮遊化)が進行することである。 仕事の脱熟練化は、計算可能性、予約可能性、訓練可能性をもっとも重視する徹底的な合理化過程であり、G・リッツァの言う「マクドナルド化」に等しい。それは、文字どおりファストフード・レストランに端的に見いだせるが、今や教育・医療・マスコミの領域にも広がり始めている。仕事がマニュアル化されるとき、労働行為はすべて、事細やかに設えられた機能的分業に還元され、労働者は厳密な管理・評価のもと、逸脱や反抗を一切許されなくなる。 人間の脱文脈化は、人々が対面的なつながりを脱し、速やかな利便性を求めるノマドとなることであり、Z・バウマンの言う「リキッド化」に等しい。これは、人々がオンライン・トレードのようなグローバルな利便性に引き寄せられ、親族・閨閥・近隣といった諸共同体と一体の位階的権威を軽視し看過していくことである。近年見られる年配者・親・教師の権威の低落は、これと無関係でない。
グローバリゼーションの問題性
こうした仕事の脱熟練化と人間の脱文脈化は、確かに大きな利潤・便益をもたらすが、仕事の喜びを薄れさせたり、生の意味を揺るがしたりもする。 仕事の喜びは、成功体験だけでなく、互いに助け合い、支えあうことで生まれるが、マニュアルに縛られた職場では、相互扶助よりも、命令に従うことが重視される。その結果、人は自分の仕事に誇りを持てなくなり、「自分は利益を追求する組織の歯車のひとつに過ぎない」と考えている。心を占めていくものは、仕事の喜びではなく、非難へのおびえ、解雇への不安である。 また、生の意味は本来、生活上の関係性すなわち他者との心情的なつながり、世界との生態学的なつながりによって与えられるが、グローバルな利便性にばかり気をとられていると、一人黙々と損得勘定に勤しむあまり、「共生」の実態、すなわち自分が親族・友人、自然・大地に支えられ、共に生きているという実感を失い、自分が関係内存在であるということを忘れてしまう。 しかしながら、グローバリゼーションは、仕事上の自律性、生活上の関係性を奪うだけでなく、そのなかでたくましく生きる力を生み出す可能性も生み出している。
グローバリゼーションを生きる
例えば、インターネットを通じて、空間的な隔たりを超えた無数の出会いが生まれ、新しい協働・連帯の途が拓かれ、そうしたつながりが新しい生きる力を生み出す可能性は否定できない。 大切なことは、これまで教育に目的を与えてきた国民国家的な規範性に固執した教育改革を行うことではなく、これまで人間と教育を支えてきた関係性が後退し、また生きる喜びを生み出した労働の自律性が奪われるという現実を見据えつつ、グローバリゼーションを生きる力をはぐくむことである。
参考文典:最新教育キーワード137 2007年 時事通信社
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