コソボ紛争5

出典: Jinkawiki

目次

コソボ紛争の始まり

ユーゴスラヴィア連邦の絶対的な指導者であったティトーの死んだ翌年、1981年3~4月、コソヴォ自治州で大規模なアルバニア人の暴動が発生した。その時点でコソヴォの約160万の人口の内アルバニア人は78%、セルビア人13%であったが、経済的な格差が学生の最も強い不満であった。暴動のきっかけもアルバニア人学生が学生寮食堂の料理のまずさに不満をぶつけ、食堂を破壊したことがきっかけだったという。アルバニア人学生はアルバニア人住人を巻き込みデモの規模を拡大し、この動きはコソヴォ各地に広がっていった。デモの鎮圧にあたった警官との激しい衝突ののち、一応事態収拾はされたが、その後もアルバニア人の中で問題はくすぶり続けて、たびたび死者を出す事件が発生した。

問題を抱えたまま直面した経済危機

「74年憲法体制」の下では、少数者セルビア人による多数者アルバニア人に対する民族抑圧を理由とした68年の暴動とは異なり、経済的不満を理由に紛争が始まった。経済面でも極限まで分権化がすすめられ、協議と合意に基づく協議経済が採用されたが、それがきっかけとなり、外貨が入ってくるようになり、ユーゴの統一市場が失われていった。このような状況下で、第一次、第二次の石油危機の影響を受け、経済危機を迎える。このような現状にうまく対処できない連邦政府に対して主に労働者からストが起こり、緩い連邦制は危機を迎えていく。

コソボ共和国の宣言

ソ連のゴルバチョフ政権の新思考外交への転換は、東欧社会主義諸国の変革の動きが一気に吹き出すきっかけとなり、1989年に東欧革命の大波が起こった。ユーゴスラヴィアでも民主化と民族の自立の要求が高まり、1991年にユーゴスラヴィア内戦が開始された。セルビア共和国内の自治州で会ったコソヴォも自治権の拡張を要求した。それに対して、連邦制の維持をめざすセルビアのミロシェヴィッチ政権は、コソヴォの自治権に対しても制約を加えたので、コソヴォ側は反発し「コソヴォ共和国」の独立を宣言した。

コソボ共和国の現状

2008年2月17日、コソヴォは一方的にセルビア共和国からの分離独立を宣言した。このコソヴォ共和国に対してアメリカや日本などは承認したが、ロシア、セルビアは未承認であり、まだ国際的に認知されたとは言えず、国連にも未加盟である。セルビア内にはコソヴォに対する軍事行動を起こす動きもあり現在もなお予断を許さない、緊張が続いている。面積は約1万平方キロメートル、人口は約200万。首都はプリシュティナ。民族、言語はアルバニア人でアルバニア語。宗教はイスラーム教。少数のセルビア系住民はセルビア語を話し、セルビア正教を信仰している。政治形態は一院制の共和政。1999年以来のNATO主体のコソボ国際安全保障部隊(KFOR、約1万6千名)が現在も駐留を続けている。

参考文献: 千田善『ユーゴ紛争』講談社現代新書 1993

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