サッチャリズム

出典: Jinkawiki

 サッチャリズムは、イギリスのマーガレット・サッチャーにより行われた経済政策であり、一般的に新保守主義と新自由主義とのイデオロギー的混成体である。その本質は、国家、国民、家族、法と秩序といった伝統的なトーリー党的保守主義のテーマを、新自由主義的経済政策と結び付けた「権威主義的ポピュリズム」にある。サッチャリズムの意義は、戦間期に1920年代、30年代に没落していった中産階級の「声」を政治空間で再び取り上げたことにある。その具体的な政策は、経済政策研究所、アダム・スミス協会などのニューライト志向のシンクタンクによって形成されていった。

 1967年にウイルソンから政権を引き継いだ労働党のキャラバン首相は、「不満の冬」を招いた責任をめぐって1979年3月の庶民院での信任投票に敗れ、総選挙でも破壊的な敗北を喫した。サッチャーは、初の女性首相として宮廷に入ると、早速、新大蔵大臣のジェフリー・ハウを通じて、通貨の統制や所得税から消費税への移行といった経済政策を開始する。為替管理が撤廃され、イギリスは第二次世界大戦以来かつてないグローバル経済に晒されることになった。

 サッチャー政権の二期目においては、石油、石炭、ガス、電気、航空、鉄道、通信、水道、鉄鋼、自動車などの国営企業を民営化し、公共部門の労働者の数を減らして、財政支出を抑制するとともに、その株式を公開することによって何百万人という小規模の株主を創出した。政府の歳入を確実に増やしながら、「大衆資本主義」に向けての思想的な推進力となっていったのである。また、サッチャー政権二期目の最大の危機となったのは、1985-86年に起こったヘリコプター会社の再建計画をめぐる、ウェストランド事件であったが、サッチャーはこの危機をなんとか乗り切ることに成功した。サッチャー政権の三期目において、サッチャーは総選挙のあと「社会などというものは存在しない」という台詞を述べ、自助を解く個人主義的原理を鮮明にして、教育、医療、行政に関する改革を進めていった。安定的に見えたサッチャー政権であったが、三期目には政権の内外で軋みが生じていった。そしてサッチャーが首相の席から追われることになる主たる原因は、ふたつあった。ひとつは、国内における人頭税の導入によって、政府が有権者と敵対したことであり、もうひとつは、政権の初期の段階から存在していた、ヨーロッパ統合をめぐる対立問題であった。


参考文献

長谷川貴彦(2017)『イギリス現代史』岩波書店


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