サンフランシスコ平和条約
出典: Jinkawiki
朝鮮戦争の勃発を契機に講和問題が急速に具体化された。東アジアにおける集団安全保障の立場から、日本に再軍備強化を求めるアメリカに対して、再軍備による過大な財政負担を避けて経済の復興と自立化を重視した吉田内閣は、この要求を最小限に抑えつつ、自由主義諸国との間だけでも早期に講和(いわゆる単独講和、または多数講和)を実現し、主権の回復を目指した。日本社会党、労働組合、一部の文化人グループなど革新勢力は、非武装中立論の立場から、単独講和に反対し、社会主義諸国を含む全面講和を結ぶことを唱えたが、与党の自由党や民主党などの保守・中道勢力や財界は、厳しい冷戦の続く国際情勢のなかでの唯一の現実的選択として単独講和を主張し、国内世論の多数もこれを支持した。
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年代
・昭和26年(1951) 9月8日、日本はアメリカ・イギリスなど自由主義陣営の48ヵ国とサンフランシスコ平和条約を結んだ。しかし、中国は中華人民共和国、中華民国とも講和会議に招かれず、インドなど三国は会議に参加せず、ソ連など社会主義諸国は条約に調印しなかった。
・昭和27年(1952) 4月28日、平和条約は発効し、連合国軍の日本占領は終わり、日本は主権を回復して、自由主義陣営の主要な一員として国際社会に復帰した。また、平和条約と同時に日米安全保障条約が結ばれ、日本国内にアメリカ軍が引き続き駐留し、「日本の安全に寄与」することとなった。日本は、さらに中華民国(台湾)と日華平和条約、インドと日印平和条約を結んだ。
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参考文献
藤野保【編集代表】(2001)『日本史事典』朝倉書店
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