サンフランシスコ講和会議
出典: Jinkawiki
サンフランシスコ講和会議
9月4日~8日にかけて、サンフランシスコ市の中心街にあるオペラハウス(War Memorial Opera House)において全52カ国の代表が参加して講和会議が開催された。
《道程》
講和条約の要綱は6月、ロンドンでの米・英会談で合意された。ここに至る前、マッカーサーが罷免され、朝鮮・「満州」への原爆投下や世界戦争へのエスカレーションが回避されたこと、アメリカがこれを局地戦争に限定し、日本を基地とする戦争を続けるなどの方針をとることで、イギリスはようやく妥協したのである。マッカーサーが罷免された日、イギリスは講和に北京政府を参加させるよう提案したが、アメリカはこれを拒否した。6月23日、ソ連の国連代表マリクが朝鮮停戦の交渉開始を提案すると、トルーマンは29日これを受け入れた。講和条約の英米草案は、この直後の7月3日、完成した。
7月20日、米英両国政府は、第二次世界大戦で日本に宣戦布告した49ヶ国に招請状を送り、9月4日からサンフランシスコで講和会議を開くこと、及びこの会議ではいわゆる「談判」をせず、草案を調印する機会とすることを通知した。さらに8月16日、米英は最終草案を決定し、関係諸国に発送した。
フランスは、ベトナム・ラオス・カンボジアの代表を加えることを要請し、いれられた。イギリスはマラヤ・シンガポール・香港などの出席を求めず、これら諸地域も英国が代表することとした。北京政府・台湾政府・北朝鮮・韓国およびモンゴル人民共和国は招請されなかった。インド・ビルマ(現ミャンマー)・ユーゴスラビア(現セルビア・モンテネグロ)は招請を受けたが、不参加の意を表明した。ソ連は、アメリカの予測とは異なり、グロムイコ外相を派遣し、同陣営のポーランド・チェコスロバキア(現チェコ、スロバキア)も参加した。こうして9月4日、日本を含め、52ヶ国が参加して対日講和会議が開始された。
参考文献
佐々木隆璽著 『サンフランシスコ講和』 岩波書店 1998年発行
佐々木隆璽著 『占領・復興期の日米関係』 山中出版社 2008年発行