ザメンホフ2
出典: Jinkawiki
ルドヴィコ・ザメンホフ(1858年12月15日-1917年4月14日)はエスペラントを開発したユダヤ系の医者として知られる。ポーランドで出生したザメンホフの母語はロシア語だが彼は言語に優れておりポーランド語、ドイツ語を流暢に話した。それだけでなく後年フランス語、ラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語も学んだ。さらにイディッシュ語、イタリア語、スペイン語、リトアニア語にも興味を抱いていた。
ユダヤ人の血筋を持つヘブライ語の言語学者の父と一般人の母(父はユダヤ教の教義は捨てている)の下に生まれた。ザメンホフの生まれた当時のポーランドは帝政ロシアの支配下にあり四つの言語(ロシア語、ポーランド語、ドイツ語、イディッシュ語)を話すユダヤ人のグループに分断されていた。それらの集団が大人はもちろんのこと子供たちまでも石を投げ合ったり、殴りあったり、罵り合ったりして憎しみ合うさまを幼少期からみており母から習った「人間は皆神様の子供だ」という教義に疑いを持った。
「私は、グロドノ県のビアリストクに生まれました。生誕し幼年期をすごしたこの場所が、私の将来の活動方向を決定したのです。ピアリストクには、四つの異なる民族が住んでいました。ロシア人、ポーランド人、ドイツ人、ユダヤ人です。それぞれ言葉が違い、互いに不和反目していました。感じやすい心を持つ人は、どこにもましてこの町で、言語の相違という重荷を痛感します。人間家族がばらばらとなり、互いにいがみ合う集団に分裂しているのは言葉が違うせいだと、しだいに確信するようになるのです。私は理想主義者として育ちました。人はすべて兄弟だと教えられました。ところが、通りでも広場でも一足歩くたびに、私はいやおうなしに痛感しました、「人間なんていないんだ。いるのは、ロシア人やポーランド人やドイツ人やユダヤ人だけだ。」子供が抱くこんな「世界苦」をせせら笑う人もいるかも知れませんが、幼い私にとってこの経験は、いつも大きな悩みの種でした。当時は大人というものは何でもできると思っていたので、私はしじゅう自分に言いきかせていました。大人になったら、この害悪をきっとなくしてみせる。」-------引用(マージョリー・ボウルトン・著、水野義明・訳、新泉社、1993年11月1日発行「エスペラントの創始者ザメンホフ」23~24P)-------
ザメンホフのおかれた言語環境は非常に良好で、当時の教養あるロシア人は三、四ヶ国語は話せるとされていた。父からはフランス語とドイツ語を教えられた。ヘブライ語は母といったユダヤ教の教会で聞き、通りに出ればイディッシュ語が聞こえた。
1873年12月、ワルシャワに移住。父はユダヤ人検閲官(ロシア帝国内の新聞の検閲)へと職を移した。1874年に、第二文科中等学校に入学。学校ではロシア語やロシア文学、ラテン語、ドイツ語、フランス語のほかに歴史、地理、数学、理科などを習った。15歳にして新言語の開発に着手するも、1879年にモスクワ大学医学部に入学する際に父親と「卒業資格を取るまで言語研究に禁ず」と約束し一時的に中断となる。しかし、1881年にワルシャワ大学に転移する際に約束を破棄。父親に預けていた自分の新言語に対する考察を書き連ねた紙を燃やされていたため、自らの記憶を元に新言語を作り出すこととなった。 1881年にアレクサンドル二世が暗殺される。その際に反ユダヤの風潮が高まり、故国のポーランドでも反ユダヤ運動がおこった。これらのことからザメンホフは「シオニズム(ユダヤ民族主義)」についても考えるようになった。
1885年に医学博士の学位を取得。リトアニアで開業。最初はうまくいかなかったが、徐々に気流に乗る。しかし、1885年5月ワルシャワの病院で眼下学を勉強、1886年にはウィーンで眼下学の特別講座を受講している。残っている証拠によれば、新言語はこのリトアニアに滞在した間に完成したらしい。
このころ、ドイツ人僧侶マルティン・シュライエルが「ヴォラピュク」という新言語を発表し1884年にはある程度の評価を得ていた。ザメンホフは当初、この言語の発展に協力しようとしたがこの言語の学習が非常に困難だということに気付きやめる。「ヴォラピュク」はザメンホフの気付いた学習の困難性や、創始者であるシュライエルの専制君主的態度、言語運動の団体での内紛などもあり徐々にその姿を消していった。
1887年3月、クララと婚約。新言語に関する書物の出版を行うことは検閲により困難を極めたが父が同僚に「息子の小冊子は人畜無害の珍本に過ぎない」と言い添えてくれたため、無事出版の運びとなった。この際に使った筆名が「エスペラント博士(Doktoro Esperanto)」であった。これは彼の新言語において「希望の人」という意をもっていた。当初は筆名は筆名で新言語はLingvo Internacinと呼ぶつもりであったが、筆名のほうが有名になってしまい新言語は「エスペラントEsperanto」と呼ばれるようになった。 1887年8月9日、クララと結婚。1888年には長男も生まれる。
ロシア語で出版したエスペラントの小冊子はそれにアンケートをつけても40ページ程度のものであった。しかし「署名人である私は、一千万の人びとが公式に同じ約束をしたことが明らかになったら、エスペラント博士が提案する国際語を学習することを約束する」と表に、そして裏に氏名と住所を書くアンケートは効を成し、ポーランド語版やフランス語版を発行することにもつながった。さらにこの翻訳語版を読んだアイルランドのリチャード・H・ゲイガンによって英訳版も出版されることとなる。1888年には「第二書」を出版した。
順調に見えたのもつかの間、1889年に父が皇帝を侮辱する記事を見逃した罪でザメンホフ家で唯一資金を持っていたルドヴィコが多量の賄賂を役人に送ることとなり破産の身になる。1889年にはエスペラント支持者の住所録を発行するも、さらに金銭面で困窮する。黒海に開業。妻と長男は妻の実家に帰す。なお、実家で妻は第二子を出産する。1892年、母死去。黒海でもうまくいかなかったが、1893年、グロドノへと赴き生活を送ることのできる程度成功し家族をワルシャワへと呼び戻す。(1889年、ドイツから世界最初のエスペラント雑誌「ラ・エスペランチスト」を発行している、雑誌はエスペラント支持者の支援などもあり1895年まで続いた)
1893年、「エスぺランチスト連盟」を創設。この時期にエスペラントの各国語訳辞典(仏、独、露、ポーランド語)を出している。しかし、「保守派」と「改革派」の論争が激烈なものとなり1894年1月にはエスペラント改造案が連盟において出される(改造案は否決)。1894年10月にドイツの著名な言語学者マックス・ミュラーから、1895年にはロシアの小説家トルストイから激賞の手紙が届く。トルストイからの手紙はトルストイが会員の「ポスレドニク」誌と「ラ・エスペランチスト」誌の協力のきっかけとなる。「ラ・エスペンランチスト」には毎号「ポスレドニクのページ」が掲載されるようになった。その2月号に掲載されたトルストイの「理性と信仰」が検閲によって方針違反とされ、雑誌がロシアで発行不能となる。この状況でザメンホフは合併号の5・6月号で読者に対して弁明を余儀なくされ、"「予約購読者の四分の三が住んでいる国(ロシア)で雑誌の購読が不許可となったので、これ以上発行を続けるのは不可能になりました」"。」-------引用(マージョリー・ボウルトン・著、水野義明・訳、新泉社、1993年11月1日発行「エスペラントの創始者ザメンホフ」86P)-------と語っている。(責任を感じたトルストイの調停によって発行禁止は解かれたが、再発行には手遅れであった。)
雑誌「ラ・エスペランチスト」は無くなったが、エスペラントの輪は世界に広がりつつあった。若くて有能な旅行好きのスウェーデン人エスペランチスト、ヴァルデマール・ラングレットは1895年夏オデッサを訪れ、そこで葡萄栽培研究所所長のロシア人エスペランチスト、ウラジーミル・ゲルネットに会う。二人は議論をしあい結果的にゲルネットの資金援助によりエスペラントに関する雑誌を発行する手はずを整えた。こうして1895年12月に「国際語」と題して出版された雑誌は第一次世界大戦まで主要なエスペラント系の雑誌となった。 さらに英国、フランス、ドイツなどの国々でエスペラントに関する団体の創設が進んだ。中南米やアジア、アフリカ大陸などにも関連団体が興りエスペラントは世界的な広がりを見せた。1905年フランスで行われた第一回世界エスペラント大会を皮切りに現在に至るまでエスペラントは世界規模で論じられる言語となった。なお、ザメンホフは1912年の第八回大会を期に公式的役割を辞退している。
1917年4月14日。心臓病によりザメンホフ死去。
引用・参考文献
「ルドヴィコ・ザメンホフ」 Wikipedia
「エスペラントの創始者ザメンホフ」 新泉社
HN:いじげん