ザメンホフ3
出典: Jinkawiki
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エスペラントとは
ポーランドのラザロ・ルドヴィコ・ザメンホフ(1859-1917)が1887年に創案した、中立公平で学びやすい国際共通語。その目的は、異なる民族の文化、言語を尊重し、それぞれの言語の橋渡しの役目を果たすことである。
ザメンホフ
エスペラントの創案者Ludoviko Lazaro Zamenhofは、1859年12月15日、ロシア領ポーランド小都市ビヤユストクで生まれた。語学教師であった祖父と父の2代にわたる生活環境の影響で、少年時代から語学が好きだった。特にロシア語が好きだった。(ロシア語で教育を受けていた)
少年時代
ザメンホフが3歳のとき、ポーランド独立のための最後の戦いが失敗に終わってからロシアの統治政策が特に厳しくなり、あらゆる学校でポーランド語やポーランドの歴史を教えることを禁じられ、教育はすべてロシア語で行われていた。ビヤユストクはもとは農村の中心で古い町だったが、イギリスで起こった産業革命が入ってきた影響でドイツ人技術者、ユダヤ人の商人、ロシア人の官吏や、農隷解放によって土地を離れた労働者などを大量に吸収していった。少年ザメンホフは「人間というものはないのだ。ただ、ばらばらのポーランド人、ロシア人、ドイツ人、ユダヤ人だけなのだ」と嘆く。幼かったザメンホフは、異民族間の不和の主な原因を、宗教・風俗の相違による感情的対立と、言語の相違による相互理解の不足にあると考えた。争いの原因を取り除こうと決心し、人類共通の宗教と言語へ憧れを抱いた。
古典学校生時代
ザメンホフは1873年9月、ワルシャワ第2古典学校の4年に編入した。この学校は4年制の小学校からはいる8年生の中等高等学校であった。彼は、特定の民族語をほかの民族の上に押しつけることに反対し、古代ギリシャ語とラテン語という人類の文化を創造した誇り高い古典語こそ、人類共通の言語として最も理想的なものではないかと考えた。彼の成績は優秀で、卒業式に銀メダルが与えられたほどであった。しかし、人類共通語は、あらゆる民族に対し公平であり、学習しやすいものでなければならないと考え、古典語は共通語としては不適当だと悟った。ここではじめて人類語を創造しようという願いが生まれた。
モスクワ大学医学生時代
古典学校を卒業すると、ザメンホフはモスクワ大学の医学部に入った。医者になることは、そのころのロシアのユダヤ人にとってほとんど唯一の「出世」の道であった。しかし、彼の父親は息子を、世界語などという空想にとりつかれているのは、偏執病の徴候であると同僚から注意を受け、自分の子を破滅から救おうとし、ザメンホフと在学中は世界語にいっさい手を付けないと約束させた。ザメンホフは「世界語」の原稿を父に預けた。しかし、彼の頭の中にその案ははっきりと残っていた。在学中ザメンホフはユダヤ人解放のためのシオニスト運動に情熱を傾けており、「世界語」もユダヤ人解放の武器として考えられていた。ユダヤ人解放運動には2つの方向があった。1つはユダヤ人を集めて、新しいイスラエル国を建設すること、もう1つは、それぞれユダヤ人が住んでいる国の民族の中に溶け込むことだ。ザメンホフはユダヤ人はユダヤ人のまま、すべての民族と調和して中立の基礎のうえに、人類の団結をはかろうという第3の理想案を見いだす。こうして「世界語」案は全人類のためのものとなった。
眼科医時代
1885年、ワルシャワ大学を卒業して、ザメンホフは医師を開業。のちにウインナ大学で眼科を専攻し、眼科医になる。そうした間にも「世界語」案にいろいろな改良を加えていった。1886年にユダヤ人の商人ジルベルニクの娘、クララと知り合い、1887年に結婚した。この年にエスペラントが発表された。エスペラントは「希望するもの」という意味である。また、世界中の人がそれだけを話すようになることを目指す「世界語」という名前から、外国人と話すときだけの用をたすものという「国際語」という名前に変わった。ザメンホフはこのことを「国際語は、異なった民族の人々の間に、互いに理解し合う可能性を与えようと願うだけであって、各民族の内部の生活に立ち入ろうと企てるものではありません。」と述べた。さらに、表紙の裏側に、「国際語は、各民族の言葉と同じように、社会の財産であるから、著者は、それに対する、あらゆる個人的な権利を永久に手放す。」と書いてある。このことは、大きな収入をもたらすはずの財産権を手放したと同時に、この国際語の進化を、使用者大衆の手に任せたことを意味する。これはエスペラントの成功した、最も重要な原因のひとつである。
参考
JEI一般財団法人日本エスペラント協会2018年1月20日閲覧http://www.jei.or.jp/esperanto-towa/
三宅史平著 1976『エスペラントの話』大学書林
HN:カピバラさん