シパーヒーの反乱

出典: Jinkawiki

 16世紀以来、ヨーロッパ諸国はアジアへ着々と勢力を伸ばしていた。そんな中イギリスは、1623年に東南アジアの香料諸島で起こったアンボイナ事件でオランダに追い出されていたため、インド進出に力を入れていた。また、同時にフランスもインドに進出している。イギリス東インド会社の軍隊は1757年にフランスと、フランスと結ぶベンガル太守シラージュ=ウッダウラの連合軍をプラッシーの戦いで破った。この戦い自体は小競り合い程度のものであったが、イギリスによるインドの植民地化に決定的な意味を持った。 以後、イギリスはインド各地の勢力を個別に撃破し、19世紀半ばまでにほぼインド全域を支配下におさめた。 ところがプラッシーの戦いからちょうど100年後の1857年、デリーの北方メーラトという町でシパーヒー(セポイ)と呼ばれるインド人傭兵たちが反乱を起こした。 当時、イギリスはイギリス人だけでは広大なインドを支配することはできないため、インド人の傭兵を使っていた。その傭兵に新しく採用されたエンフィールド銃が配られていたのだが、それは銃口の先から弾を込める銃で、薬莢をかみ切って弾を込めなければならない。ところがその薬莢には、豚と牛の脂が塗られていたという。イスラーム教徒は、豚は不浄な動物として絶対に口にしないことがよく知られている。一方のヒンドゥー教徒は、逆に牛を神聖な動物として口にしない。イギリスがこの銃を使うことを強制したため、彼らシパーヒーは反乱を起こしたのだ。 彼らはほとんど引退同然であったムガム皇帝バハードゥル=シャー2世をかつぎ上げ、大反乱となった。 すでにインドには、イギリスの支配に対する不満がたまりにたまっていたのだ。イギリスはインドの伝統的産業であった綿織物産業を破壊し、インドを綿花の生産地として、イギリス製の機械で作った綿織物を買わせていた。また近代的土地制度を導入したため、従来のインドの共同体は破壊されてしまったのである。 シパーヒーの反乱をきっかけに、インドの各階層の人々はこぞって反乱に加わった。しかしだからこそ、反乱側には組織も何もなく、イギリスは各勢力を分断して、鎮圧することができたのだ。同じ頃、中国で起こった太平天国が、上帝会という宗教結社を核とした反乱であったのとは対照的である。2年後の1859年には反乱はほとんど鎮圧されてしまった。


参考文献 忘れてしまった鹿児100年の世界史 植村光雄(著)中経出版 2004年5月9日


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