ジェームズワット
出典: Jinkawiki
ジェームズ=ワット(1736年〜1819年)
●グラスゴー大学の器具職人
スコットランドの船大工の家に生まれたワットは、子供の頃から手先が器用であり、父の仕事場に行っては工作に励んでいた。また、このころ、湯気でやかんの蓋が持ち上がるのを見て、蒸気に興味を待ったと言われている。 やがて学校を出ると、父の仕事を手伝ったが、18歳の頃に家業がうまくいかなくなり、ロンドンの化学器具製造行者のもとに弟子入りすることになった。定規や羅針盤など、さまざまな道具作りの修行を積み、1年で技術を身につける。そうすると、1757年にグラスゴー大学の器具職人として構内に店を構える。そこでワットは、学内の器具の修理や手入れに精を出すとともに、教授や学生たちと交流を深め、進んだ知識を吸収していったのである。
●蒸気機関との出会い
1763年、ワットは大学からニューコメン機関の模型を修理するように頼まれた。ニューコメン機関は、1712年ごろに発明された蒸気機関で、イギリスでは、ワットが生まれる以前から、長年にわたって鉱山や炭鉱の排水ポンプに使われていたものだった。 模型を修理していたワットは、この機関が大量の燃料を必要とする割に、動きが鈍く効率の悪いものだと知り、これをきっかけに蒸気機関の改良に取り組み始める。グラスゴー大学のブラック教授のアドバイスと、その教え子ローパックの援助を受けながら実験を重ね、1765年、まず復水器という、水蒸気をシリンダーの外で冷やす装置を発明。その後も改良を重ね、ついに1769年には、大気圧を使わずに蒸気の力だけで動く、本当の意味での蒸気機関を完成させた。これにより、蒸気機関の効率は以前の何倍にも跳ね上がったのである。
●産業革命の原動力
しかし、当時の技術では精密な部品を作ることができなかったためらなかなか実用機を完成させることができなかったのである。さらに、追い討ちをかけるように、援助者の破産、妻の死亡と不幸が相次いでワットを襲ったのであった。 失意のどん底に落ちたワットに救いの手を差し伸べたのは、バーミンガムの大工場主ボールトンだった。1774年、ワットは彼のもとに移って研究を続けることにした。翌年、運良く鉄の精密加工機械が発明されたことによって部品の問題も解決し、ついに実用的蒸気機関の製造にこぎつけたのである。以後、ワットの蒸気機関は数多くの鉱山に取り入れられたが、さらにワットは、ピストンの往復運動を回転運動に変える改良を加えたのである。 この新しい蒸気機関は1782年に完成し、紡績業や毛織物業をはじめ、様々な工場で機械の動力源として幅広く使われるようになった。その結果、産業革命を飛躍的に進めることになった。
●ニューコメン機関
イギリスのニューコメンが発明した蒸気機関。大気圧を利用するため、大気圧機関とも呼ばれる。ピストンを押し上げた蒸気が冷水で冷やされて水となり、シリンダー内が真空になると、大気圧でピストンが押し下げられる仕組み。この時、シリンダーも同時に冷やされるため、次にピストンをあげるときには、シリンダーが温めるために大量の蒸気が必要となり、熱効率が非常に低かった。
参考文献 目でみる 世界人物百科 2 芸術・文学人物事典 日本図書センター
TIT0804