ジム・クロウ法5
出典: Jinkawiki
概要
アメリカ合衆国南部における、一般公共施設の利用を禁止制限する法律など、人種の物理的隔離に基づく黒人差別の法体系。広義には、アメリカの黒人差別体制一般をいう。対象となる人種は「アフリカ系黒人」だけでなく、「黒人の血が混じっているものはすべて黒人とみなす」という人種差別法の「一滴規定(ワンドロップ・ルール)」に基づいており、黒人との混血者に対してだけでなく、インディアン、ブラック・インディアン(インディアンと黒人の混血)、黄色人種などの、白人以外の「有色人種」も含んでいる。
背景
ジム・クロウ法が、黒人差別の法体系として全面的に発展し、長期にわたって維持されたのは南部においてである。その起源は、南北戦争(1861~65)前の南部諸都市にみられ、自由黒人と非奴隷所有白人との接触に脅威を感じた奴隷主勢力は、食堂、酒場、売春宿、ホテル、学校、病院などの人種隔離を法制化した。南北戦争後、南北統合期に奴隷が解放されると、白人優越体制を維持するために、黒人を事実上の奴隷状態にとどめておく、黒人条項Black Codesと総称される諸法が制定され、人種隔離が規定された。南部では黒人労働力による農業が依然として経済の基礎であったため、「黒人が白人と平等になっては困る」というのが南部経済を支える有力な白人農園主たちの意見である。 1881年テネシー州議会が鉄道での人種隔離を法律化したのを皮切りに、とくに連邦最高裁の公民権法無効判決(1883)以後一斉に南部各州が人種隔離の法律化を開始した。96年、連邦最高裁がプレッシー対ファーガソン裁判で「隔離すれども平等」separate but equalと述べ、積極的に人種隔離を容認するに至り、人種隔離は全国的な原則と認められた。隔離は、実際には平等をまったく意味せず、それぞれの人種のためにつくられた諸施設の質には格段の差があり、それは人種差別そのものを意味していた。 第二次世界大戦後の公民権運動の第一の攻撃目標は、このジム・クロウ制度であり、1954年連邦最高裁が「隔離すれども平等」の原則を破棄すると、南部各地で次々と人種隔離制度打破の運動が成功した。そして、64年公民権法によって法的には人種隔離は禁止された。しかし、黒人に象徴される事実上の人種隔離は根強く存在している。
名称
名称に関しては、奴隷当時、黒人たちは蔑称で「ニグロ(Negro)」と言われていた。黒人の力が上がってきた70年代前半には、社会的な人種区分を反映した「黒人(Black)」が使われるようになった。最近ではエスニック・カテゴリーからアフリカ系アメリカ人(African American)とも呼ばれている。
参考文献 ・杉野俊子 『アメリカ人の言語観を知るための10章』(2012) 大学教育出版
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