ジョージ・ウォーカー・ブッシュ2
出典: Jinkawiki
ジョージ・ウォーカー・ブッシュ( George Walker Bush 1946年7月6日 - )は、アメリカ合衆国の政治家で第43代大統領である。
概要
出生は1946年7月6日、アメリカ合衆国コネチカット州ニューヘイブン。父親は第41代アメリカ合衆国大統領ジョージ・H・W・ブッシュ、母親はバーバラ・ピアーズ・ブッシュ、配偶者はローラ・ブッシュ。
2001年1月20日 – 2009年1月20日の間大統領を務める。2000年8月に共和党の大統領候補の指名を受け、2000年の大統領選挙で当選し、2004年の大統領選挙で再選する。 ブッシュの選挙運動における「私は、皆さんの信頼を得られるなら、その信頼を大切にする権限を与えられるなら、それを活用するこの国を指導する機会を与えられるなら、指導者となる」というメッセージなどは、米国の2大政党である共和・民主両党の保守派・中道派、無党派、男性・女性、ヒスパニック系、アフリカ系米国人など、全米の幅広い有権者に受け入れられた。 ちなみに父子で大統領を務める例は、米国史の初期に第2代大統領ジョン・アダムズの息子ジョン・クインシー・アダムズが、第6代大統領となって以来のことであった。
一期目
2001年1月20日に大統領に就任。大統領一期目は、ほとんどが対外戦争のことであった。 9月11日に、ニューヨークとワシントンで同時多発テロが発生した。ここでリーダーシップを発揮し、一時期歴代トップであるケネディをも上回る驚異的な支持率を獲得する。
10月7日に対テロ戦争を開始。国内はパニック状態になるが、一方で作戦は順調に進み、12月7日にはタリバーン政権を壊滅させ、同月に新政権を樹立した。
02年1月に一般教書演説において、イラク・イラン・北朝鮮を大量破壊兵器を開発保有するテロ国家と非難する悪の枢軸発言をする。 特にイラクに対しては武装解除問題を抱えていたので厳しい態度で臨み、国連の査察を4年ぶりに受け入れさせた。しかしイラクは協力的でなく、翌2003年に入ると、イラクに対し更に強硬姿を採るようになる。
3月17日にイラクの大統領であるサッダーム・フセインに48時間以内の国外追放を求める事実上の最終通牒を発表。 しかしイラクはこれを無視し、3月19日にイラク戦争が開戦。5月1日には「大規模先頭の終結宣言」を発表したが、これについて特にイラク側との協定はなく、実際にはまだ戦時中であった。 12月にフセインの逮捕に成功し、占領政策も順調に行われていたが、アメリカに対する攻撃や自爆テロが絶えなかった。また、イラクが隠し持っていると主張していた大量破壊兵器が見つからず、イラク戦争に対し国民は懐疑的になっていった。
二期目
2004年、2回目の当選を果たす。
2005年2月2日に一般教書演説を行う。内容は外政に関して各国との協調路線を取ると述べ、世界を自由にするという決意を示した。 特にイラクの国民議会選挙を評価し、イランの核問題に対して強硬な姿勢を出し、中東各国の和平・民主化、北朝鮮の書く廃棄問題などを取り上げる。
8月29日にハリケーン・カトリーナが起こり、過去最大級の犠牲者を出す。このとき政府の予防の不十分さと対応の遅れが非難された。 住民を守るべき州兵までもがイラクへ派兵されていることも大いに疑問視される。他、十分な災害予算を計上していなかったこと、彼の母親の発言、被災者の白人系裕福層のひいきなどにより更に不満は高まった。 その後10月のプレイム事件とも重なり、11月にニューズウィーク誌が実施した世論調査によると支持率は36%にまで低下していた。
それからも様々なことが起こったが2009年1月20日、任期満了で大統領を退任。
イラクに対して
イラク武装解除問題により、イラクが国際原子力機関(IAEA)の査察に全面的な協力しないこと、大量破壊兵器を隠し持っていることなどを強硬に主張。 軍事行動を肯定する国際連合安全保障理事会による決議を否定し、2003年3月17日にフセインに最終通告を発表。フセインの黙認を受けイラク戦争を開始する。 だが、開戦の根拠とされた大量破壊兵器はその後発見されず、イラク戦争の正当性が揺らぐ事態となる。後に事実無根であることが判明し「私の政権の期間中、もっとも遺憾だったのが、イラクの大量破壊兵器に関する情報活動の失敗だった」と釈明した。ブッシュ政権はその後、開戦の理由を「イラクのフセイン政権がアルカイダをはじめテロリストを支援している」と説明し、「同時多発テロの実行犯モハメド・アタとイラクの諜報部員が接触していた」と主張。 ちなみに、英歴史家のポール・ケネディの読売新聞紙上に載せたコラムによると、ブッシュが開戦から5年の間にイラクに訪問したのはいずれも数時間足らずで、合計すると一日にも満たないとされている。 結果的にイラク戦争の死者は10万人まで増加し、反米感情を残すこととなった。それにより起きた靴投げ事件のさいには、犯人の男に対する同情や駐留米軍に対する抗議の声が民衆から聞こえるようにまでなる。
参考サイト:http://www.sipec-square.net/~mt-home/activities/2003s/bush/bushtop.htm