スターリン2

出典: Jinkawiki

スターリン

何かと有名なスターリンですが、初めから彼がレーニンの後継者として振る舞えたわけではありません。実は、レーニン葬式の時点では、それを取り仕切ったゼルジンスキーが共産党の中心的な人物でした。ところが、ゼルジンスキーはスターリンに比べ、党の仕事が苦手でした。そこで、スターリン書記長とモロトフ書記という2人のコンビが共産党を掌握することになります。そう、このモロトフという人物も、スターリン時代には欠かせない中心的な人物です。

 ところで、共産党と言えば中国を除けば、書記長がトップとなることが多いですが、なんで書記長がトップなのでしょう?  書記というのは、当然元々は会議などで速記をする役目の人物です。ところが、そうすると重要な情報も握るようになります。そこで、これは重要なポストとなっていったわけです。スターリンが権力を握ったことから、共産党系ではトップや、それに継ぐ地位を書記長として定着したみたいです。ちなみに書記長以外のトップの役職には、委員長だとか、主席というポストがありますね。

 で、スターリン。彼は、ロシア人ではなくグルジア人です。  また、今も子孫はグルジアにいて、迫害を受けて問題になったこともあります。一方、閲覧者からの情報によりますと、じーさんそっくりの孫、エヴゲニー・ジュガシヴィリは政治活動をやってるそうです。あと生地のグルジアのゴリの街にはスターリン像と記念館があるそうです。


 さて、彼の略歴を紹介しておきましょう。  スターリンは1912年、レーニンによって党幹部に登用された人物で、トロツキーなどの古参とは違い、基本的には十月革命以後に活躍します。民族問題人民委員部長として国内戦の指揮を執り、国家管理人民委員部長(労働者・農民監督人民委員部長)として活躍し、1922年に党書記長に。

 レーニンが死ぬと、最初はジノヴィエフ(1833~1936年)、カーメネフ(1833~1936年)とトロイカ(三人組)を作って、トロツキーに対抗。その後、三人とも追い出し、モロトフと共に党内で独裁体制を築きあげたのです。また、1930年にはスターリン反対派のルイコフ首相も追い出し、モロトフを首相に据え、ここに政府を完全掌握します。

 なおトロツキーは、1929年に追放された後、スターリン批判を続けますが、亡命先のメキシコでスターリンの刺客に殺害されました。


参考文献

スターリン秘録 斎藤 勉 (著)

大審問官スターリン 亀山 郁夫 (著)

編集者M.M


  人間科学大事典

    ---50音の分類リンク---
                  
                  
                  
                  
                  
                  
                  
                          
                  
          

  構成