ソビエト連邦
出典: Jinkawiki
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ソビエト連邦
ソビエト社会主義共和国連邦は1922年に世界初の社会主義国として成立し、1991年に解体された連邦国家である。略称はソビエト連邦、ソ連、ソ連邦など。
ソビエト連邦はソビエト連邦共産党の一党独裁国家であるが、それと同時に軍事大国としても有名であり、第二次世界大戦後にはアメリカ合衆国と伍する超大国であった。
首都はモスクワ。国旗のデザインは革命を意味する赤地に労働者と農民のシンボルである鎌と槌を交差させ、その上に五大陸の労働者の団結を意味する五芒星を配したものである。
歴史
- 建国
ロシア内戦が終わった1922年に第一回全連邦ソビエト大会が開催され、12月30日にソビエト社会主義共和国連邦の樹立が宣言された。 しかしその1年1カ月後にレーニンが亡くなり、レーニンの死後に独裁的権力を握ったヨシフ・スターリンによって彼を頂点とした一国社会主義路線が確立された。
- 大飢饉
スターリンはネップを終わらせ、強引な計画経済化に踏み切った。 1928年から行われた第一次五ヶ年計画の中心におかれたコルホーズを代表とする強引な農業集団化に伴うクラーク(富農)絶滅計画や飢饉によって死亡した人数は水系によって約700万人に達する可能性もあるといわれている。 この無理な農業集団化の強行により、1932年から1933年には大飢饉がおこり、500万人とも1,000万人とも言われる餓死者がでた。 特にウクライナにおける飢餓(ホロドモール)は甚だしく、400万人から700万人の餓死者がでたと言われている。 ウクライナ政府は2006年にこの飢餓をウクライナ人に対するジェノサイド(一つの人種・民族・国家・宗教などの構成員に対する抹消行為)であると認定している。 実際、この「拙速な集団化政策」はウクライナ人弾圧の為に意図してなされたものであるという説も有力である。
- 粛清
スターリン時代の大粛清時(ピークは1936年から1938年)には裁判を経ずに多くの党員や軍人、国民が死刑もしくは流罪などにより粛清されたとされる。 大粛清による犠牲者数には諸説あるが、当時行われた正式な報告によると1930年代に「反革命罪」で死刑判決を受けた者は約72万人とされる。ただしこれに関しては過酷な取り調べ・尋問の過程で死亡した者や有罪判決を受けて劣悪な環境下で服役中に死亡した人数については正式な数が残されていないため、その人数を合わせれば犠牲者数はもっと増大するとみられる。
- 冷戦
第二次世界大戦からソ連崩壊までの間を通じて、アメリカとの間では直接戦争こそ生じなかったものの。ベルリン封鎖などの有形無形の敵対行動や朝鮮戦争、ベトナム戦争などの世界各地での代理戦争という形で冷戦と呼ばれる対立関係が形成された。 とくに限りない軍拡と核兵器の開発競争は世界を核戦争の危機に晒すものだった。
冷戦が正式に凍結したのは1989年のことであり、それまでの東側諸国の相次ぐ民主化にとり東西の冷戦構造が事実上崩壊したため、マルタ会談により正式に冷戦の終結を宣言した。
崩壊
1991年12月25日にソビエト連邦大統領であるミハイル・ゴルバチョフが辞任し、同時に各連邦構成共和国が主権国家として独立したことに伴い、ソビエト連邦は崩壊した。
このソビエト連邦という超大国の死滅は、世界中に衝撃を与えた。
ソビエト連邦崩壊時のソビエト連邦構成共和国は、ロシア、エストニア、ラトビア、リトアニア、ベラルーシ、ウクライナ、モルドバ、グルジア、アルメニア、アゼルバイジャン、カザフスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタン、タジキスタン、キルギスの15共和国である。
参考
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