タウンゼント・ハリス
出典: Jinkawiki
日米和親条約のもとに日本に来た、最初のアメリカ代表者。1856年、下田へ来日し、玉泉寺に住む。当時、日本では牛肉を食べたり、牛乳を飲む習慣がなかったので、ハリスのためにわざわざ用意された。1年後、許しを得て江戸へ移ると、幕府に貿易の条約を結ぶよう求めた。そして意見のまとまらない幕府を熱心に説得し、1858年、日米修好通商条約を結ぶことに成功した。ハリスは日本に好意的であったが、結ばれた条約は不平等であった。
生涯
文化元年(1804)10月4日~明治2年(1878)2月25日
幕末の駐日アメリカ外交官。ニューヨーク州サンディ・ヒル生まれ。16歳から父母と兄のもとで陶磁器の輸入販売に従事し、民主党の支持者として政治にも関わり、1846年にはニューヨーク市教育委員会の委員長に就任する。無料のニューヨーク・フリー・アカデミー(現ニューヨーク市立大学)の設立に力を尽くした。 49年には自力でアジア貿易を目指して中国沿岸・東インド・フィリピンや南太平洋を旅して人脈を広げた。54年には、中国の沿海港湾都市、寧波の領事に任命されたが、彼はペリーによって開かれた日本でのポストを熱望していたため、任用を受けず、帰国して大統領フランクリン・ピアスに運動して55年に駐日総領事に任命された。ハリスは書記として採用したオランダ人、ヒュースケンを伴い、安政3年8月下田に着任し、柿崎の玉泉寺に住居を構えた。 まずハリスは下田奉行井上清直・中村時万との交渉により、下田条約に調印した。これはペリーによって結ばれた、神奈川条約におけるアメリカ人の権利を拡大するものだった。そして巧みな交渉で幕府との間に日米修好通商条約の締結を行った。条約は55年、米船ポーハタン号上で調印された。安政6年特派全権公使に任ぜられ、江戸元麻布の善福寺を公館として開国初期の対日外交に当たった。彼は各国外交官の最古参の位置にあり、万延元年、赤羽接遇所から宿舎の善福寺に帰る途中、薩摩の志士等に暗殺された、ヒュースケンの事件を機に英国公使オールコックら各国代表が横浜に退去した際、幕府の保護を信頼して一人江戸に止まるなど独自の態度を示した。
略歴
1804年 ニューヨーク州サンデーヒルに生まれる。
1846年 ニューヨーク市教育局長に就任
1847年 ニューヨーク市立大学前身フリーアカデミー創設
1854年 中国(清国)寧波領事に任命されるが拒否
1855年 日本駐在総領事に任命さる。
1856年 玉泉寺に米国総領事館を開設
1857年 江戸城にて13代将軍家定と面会
1858年 日米修好通商条約14ヶ条を締結
1859年 公使に昇任
1862年 帰国
1878年 ニューヨークにて死去 74歳
日本側の対応
アメリカ総領事ハリスが通訳ヒュースケンを伴い下田に上陸したことは、日本にとってみると思いもよらなかったことであった。日米和親条約の日本側の解釈によると、日米の両方が必要と認めたときに外交官を派遣するということになっていて、日本が必要としていないアメリカの外交官が来るはずがないと思っていたのである。しかし、条約文の原文によれば、日米の一方が必要と認めたときに外交官を派遣するということになっていて、アメリカはハリスを総領事として日本に派遣したわけである。この日本側の解釈は、アメリカに押し切られた形での日米和親条約の内容をごまかすための幕府側担当者の意図的な誤訳だったのであろう。幕府にとってみるとハリスは招かざる客であった。下田奉行所の応対は混乱したが、ハリスは自分の正当性を主張し、下田柿崎の玉泉寺に星条旗を掲揚して日本最初の米国総領事館とした。幕府がハリスの駐在を正式に認めたのは、8月25日のことであった。
参考文献
河村 望著 『タウンゼント・ハリスと堀田正睦』 人間の科学新社 2005年